バカの壁という本を出す人を何人かいます。

私はその人の本を読んだことはありませんが、どういう意味なのかは予測が付きます。

自分が思ったことや考えたことが良いと思っても、間違ったことだと気が付かず、反省もしない、変えようともしないで、自分がしたことは正しいと思い込んでいる。

 

間違ったことを分からずにそのことが絶対に良いと思い込み、何回でも過ちを繰り返す。

馬鹿とは自分の考え方の中で生きているが、利口な人間から見るとなぜそのようなことが分からないのかというように思えるのです。馬鹿と言われた人は反省して考え方を勉強してバカの壁を乗り越えなければ、馬鹿の地域にとどまり続けるのです。

 

馬鹿と言われる人は、人の意見も聞き入れず、自分が正しいと思い込み、自分の考え方を変えない人なのでしょう。

 

ホリエモンから見たバカの壁は、こんな簡単なことが分からないのか、という上目線から言っているのですが、人には能力の差があって、ある人から見ると簡単に分かることでも、ほかの人から見たら難しく理解できないのです。

この世のなかには様々な能力の人がいて、自分の能力の範囲内で生きています。

 

ホリエモンが良く言いますが、中学の先生が教える授業は、全然参考にならない、無能なのではないか、とか言っていた記憶がありました。

このことは自分では分かることでも能力の差で分からない人もいるのだという事を理解しなければなりません。

 

たまたま頭の良い人間に生まれただけですから、人より優れた能力を持った人間は、能力の低い人間をけなしてはいけないのです。

生きている中で、人それぞれ、自分の能力の範囲内で理解をしようとして努力をしているのです。

 

私の知り合いに、器用貧乏というのか、何をしても何をやってもすぐに、そこそこ覚えてしまうのです。

その人の友人に覚えの悪い人がいたのですが、(あいつは何回も同じことを教えても間違える、馬鹿な奴だ)このように言っていたのです。

 

先ほどから説明しているように、能力の差があり、一つのことを一日でできてしまう人もいれば、二日で覚える人、一週間で覚える人や努力をして一年間かかって覚えた人など、その人の能力や理解力の差は必ずあるのです。

能力のない人を馬鹿にした場合、上には、さらに上の能力のある人間がいいるのです。ですから、少しくらい頭が良いと思っていると、もっと上の能力のある人に馬鹿にされるのです。

 

馬鹿とは、馬と鹿と書きます。馬や鹿は驚いて一度走り出すと止まることをせず、先に崖があっても足り続けて、崖から落ちてしまう、ということから、馬鹿とは自分の考え方を見直そうともしない、復習能力もない、自分の能力もわからない、自分では最高のことを言っても、人はどの様に受け止めたのか、など周りの人のことを考えようともしない。人を指すのです。

 

人間は過ちの繰り返しや失敗の繰り返しで生きています。

その失敗や過ちを反省して、失敗や過ちをしないように、次はどの様にしたらうまくいくのかなど、失敗を反省して、失敗を繰り返さぬようにすることでは馬鹿とは言いません。

 

馬鹿なやつとは何回失敗や勘違いをしても、失敗の反省や勘違いの反省をしようともせず、相変わらず、前回失敗したことや勘違いをしたことを何回でも繰り返す人間のことなのです。

 

自分ではできない大きなことや自慢話をしたり、(自分でその気になっていても自分の能力の分からない人間

は馬鹿というのです。)このような人間は恥という言葉も知らないでしょう。

馬鹿は幸せだということは、自分の能力を知らず、恥をかいたことも分からない人のことを言うのです。

 

馬鹿と言われないためには、もう一度自分を見つめ治し、反省することはして、努力をすることをして、自分の能力を判断して磨き、自分を人間としての向上を図り、人に施しの心を与えれば、恥をかくことも馬鹿にされることもなく、人から素晴らしい人だと言われるでしょう。

 

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終わり良ければ総て良しという言葉を言ったことはありませんか。

終わりが良かったら、途中に失敗したり、苦労をしたり、間違いをしたり、しても、何かを達成したならば、今までの出来事は帳消しで、達成したことがすべてで、それが今の喜びだ、というような意味です。

 

人生に例えると、あの世に行くまでの間に苦労をしたり、悔しい思いをしたり、自分の思い通りにならなかったこともあった、楽しいこともあった、幸せを感じたこともあった、というように、楽しんだり、苦しんだりしたでしょう。

このようなことで、そして、解決できないことがある場合、人生の終わりの時に、終わりよければすべて良しとは言いません。

 

終わり良ければ総て良しの心境にたどり着くには、難問や難関に立ち向かい、失敗したり、苦労をしたり、諦めかけたり、途中で逃げ出しそうになったり、したけれど、何とかやり遂げ、問題を解決した、そして今、人生の終わりに近づいているときの心境が、達成感と安心感で包まれたときに、終わり良ければ総て良し、という言葉が使えるのです。

 

先生はよくこのような話を致します。

百歳まで生きるとして、◎楽しさは一割で苦しさが九割で苦労する人生が九十九歳まで続くが最後の一年間は楽しく自分の思った通り生きられる。

もう一つの選択は、楽しさは9割で一割は苦しいが、九十九歳まで楽しく思った通りに生きられるが、最後の一年間は自分の思い通りにならない苦労をする人生。

 

皆さんはどちらを選びますか。?

私が若いころだったら、最初の9割楽しい、終わりの0,1割苦しい、というように99対1の計算でこちらを選んだでしょう。

 

終わり良ければ総て良し、とは、時間はどんどん通り過ぎ、未来向かって進みます。途中の人生がいかに楽しくとも、どんどん年を重ね、気が付くと人生の終わりに近づいてしまうのです。最後の一年間が、自分の思った通りに生きられて、満足して、安心して旅立てるのと、最後の一年間が自分思った通りに生きられず、悲しい思いや苦しい思いをして、旅立つのでは、悔いが残り、苦しい状態で旅立つのでは、やり残した思いが残り、安心して旅立てないのでしょう。

 

このことが終わり良ければ総て良しに繋がるのです。

ですから、難関に立ち向かい、失敗してもあきらめずに、どんな苦労にも屈せず、努力を惜しまず、解決する努力をして問題が解決する。そしてて達成感と喜びが生まれる。

 

人間は山登りを一生続けなければ喜びを感じられないのです。険しい山を登るときには苦しいが諦めずに登り切り、達成感と征服感を味わい喜びを感じる、そしてさらに上の険しい山に登り挑戦する、そしてやり遂げる、この繰り返しをすることで、人間の魂は大きくなり、些細なことには目もくれず、どんな難関にも立ち向かいやり遂げる勇気が出る。

 

ぬるま湯につかっていると、出ると寒いし、ぬるま湯に入っていても温かくないが

ぬるま湯からずーっと出られなくなる。これでは、つまらない、喜びの感じられない人生と同じなのです。

これとは違い、苦労を乗り越えて、戦う、ことを繰り返してこそ、人生の終わりの時に生きていてよかった、いろいろあったがすべて乗り越えられた、思い残すことはないという安心感で旅立つことができるのです。

 

これこそが安らぎの境地にたどり着いたときの心境になるのです。

 

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昨日も書きましたが、気功とは念を入れて気を操り、相手に気を伝えることですが、カン違いをしているのは、気功は誰にでもできるものなのです。

気功を行うには、相手を良くしたいとか、病を治してあげたいとか、自分の伝えたいことを強く思い念じ、相手に伝わるように念じ続けることなのです。

 

このことは、皆さん経験があるかもしれませんが、例えば、幼いころお腹が痛い時に母親がお腹に手を当ててさすって、『痛いの痛いの飛んでいけ』などを口ずさんでお腹をなでていると痛みがなくなったことがあるでしょう。

他には、予感がした、というのも相手からのテレパシーを感じたからです。

身内が無くなった時に鈴の音が聞こえたとかいうのも、相手からのメッセージなのです。

 

このこと自体が気功なのです。

気功とは、時空を通り越して相手に何かを伝えることなのです。

その中で気功で病を治したりする行為も、気を操り念を入れて相手に伝えることで、気功なのです。

 

キリスト様や日蓮上人や親鸞聖人などが気功を使ったというのは少し違うのです。

念を入れて気を操り相手に伝えるというのは同じですが、癒しの超能力とは全然違うのです。

癒しの超能力者は生まれ持って神より与えられた宿命の力である、スピリチュアルヒーラーとして生まれた人のことを言います。

 

キリスト様や日蓮上人や親鸞聖人などは生まれた時からスピリチュアルヒーラーとしてのものを持っていたのです。

 

スピリチュアルヒーリングは説明のできない異次元の考えられない不思議な力で相手を癒し治す。という意味なのです。

スピリチュアルヒーラーとは宇宙のエネルギー、生命のエネルギーを活用できる人で癒しの超能力者であり、相手を病気やケガを治すことのできる人を言います。

 

気功を使う人のなかにも自分では知らないスピリチュアルヒーラーとして生まれた人がいます。その中でも気の力の強弱がありますが、そのような人が、気功を習い、相手を癒すと、自分の気の強弱の範囲内で病に効果を与えられるのです。

 

ガンや難病に高い効果を与えられるスピリチュアルヒーラーはごく少数の人がいるか居ないかくらいでほとんど見つからない程度の人間しかいないのです。

 

いつも書きますが、力の弱い気功師がガンを治します。難病を治しますと書いていますが、殆どが治らないのですが、中には少しだけ生まれ持った気の素質のある気功師ならば、多少の効果を与えられているのでしょう。

 

力の強いヒーラーと巡り合うには、今まで生きてきた中での考え方や行動が重要になります。

自分勝手な人や相手を思いやらない人などはダメなのです。

神がこの人くらいの行動や考え方だったら、神様が命を取り戻してあげたいと判断した人だけが、縁という繋がりで、ガンや難病に高い効果を出せる、ヒーラーと巡り合えるのです。

 

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気功とは念じて気を操ることを言います。

何かにつけて気功という言葉を入れて説明する人もいますが、気を操るということは、何かをなそうとしたり、何かを変えようとしたり、人の病を治そうとしたり、相手の幸せを願ったり、する念力によって変えようとすることなのです。

 

病の相手を治すとしたりする気功施術では、手のひらや指をツボに押し当てて、神経のツボから気を入れて効果を出そうとするものです。遠隔気功は、離れた場所から念を入れて相手に伝えるものです。

 

しかし、気功教室で習い認定書を簡単にもらった程度の気功師では、生まれ持った癒しの気のよほどの素質が無ければ相手の病に高い効果を与えることはできないのです。

 

中には気功の認定書をもらった時点で、相手に気を送り、ガンや難病を治せると思う人もいます。

このように簡単に考えている人もいますが、数か月間に気功施術をして効果を与えられなければ、自分の気の力が弱いことが分かるはずでしょうが、相変わらず、ガンや難病を治す、治せると、宣伝している人を多く見かけます。

 

気功をする気功師でも、気の強弱があります。

気の力の弱い気功師では、簡単な肩こりや腰痛程度しか効果を与えられません。気の力の強い気功師でも、ガンや難病に少しの効果を与えられても、治すまでには到底至らないのです。

 

スピリチュアルを日本語に直すと、目に見えない化学では証明できない、魂と魂の繋がりで考えられない不思議な現象のことを言います。

ヒーリングは治療効果、治癒効果、の癒しを与えることを意味します。

 

スピリチュアルヒーリングはキリスト様の使った癒しの超能力なのです。

 

ですから、気功とスピリチュアルヒーリングとの違いは、気功は習ったり訓練したりして身に付けるものですが、スピリチュアルヒーリングは、生まれ持って神より与えられた宿命の力なのです。

 

しかし、スピリチュアルヒーラーの中でも気の強弱があります。

ガンや難病を治せる気の力を持つ人は殆どいないのですが、ガンや難病を治す癒しの超能力者がごく少数いるのです。

 

E先生は、癒しの超能力者の中でも力の強いスピリチュアルヒーラーなのです。

 

しかし先生は、淡々としていて自慢することなく普通にしています。

先生に聞くと、【この癒しの超能力は、私にこの力を使って困っている人を助ける為に使うものなのです。これが私の宿命なのです。私は神様の召使と同じようなもので、この役目を果たすための神の代行なのです。】といつも言っています。

 

 

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