2007年07月19日

【日本語タイトル傑作選】さすらいのギター★★★サウンズ

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現在なら、原題を日本語に訳したものをそのまま日本語タイトルにしてもよさそうなものも、60年代は当時の歌謡曲のタイトルに似たものに変えてしまうことがよくありました。

そのパターンのうち最も多いのが、タイトルの頭に次のようなことばを使う方法でした。
 愛の〜、恋の〜、悲しみの〜、哀愁の〜、霧の〜、さすらいの〜、涙の〜
これらのフレーズの後に、曲のイメージに合う適当な言葉を付ければ無限大にタイトルを作り出すことができました。
中には、「霧のカレリア」(Karelia)や「涙の乗車券」(Ticket To Ride)のように原題あるいはその日本語訳を使ったものもありますが、ほとんどの場合は原題とは関係なく、いわば日本のレコード会社担当者の創作に近いものでした。

「さすらいのギター」は原題を「Manchurian Beat」と言います。
ベタな日本語に訳すと、さしずめ「満州音頭」と言ったところです。
これではさすがにどうにもなりませんので、当時の日本ビクターの担当者は頭を悩ませたことと思います。
そこで、上に述べたような方法で日本語タイトルを作りだしたようです。

当時の日本語タイトルのもう一つのパターンとして、トランペットやギターがメインの曲の場合、楽器名を使う方法がありました。
例えば、「夜明けのトランペット」などです。
と、言うことで、「Manchurian Beat」は原題と関係なく、「さすらいのギター」となりました。

60年代中頃のエレキブームの初期に発売されたサウンズの「さすらいのギター」は、マイナーヒット程度でした。
後にベンチャーズによるカバーが大ヒットしましたので、このリバイバルでこの曲を知った方の方が多いかと思います。
ベンチャーズ版は、エレキギターの代わりに電気シターを使い、数種のパーカッションを加えてパワフルな演奏になっていました。
一方、オリジナルのサウンズの方は、シンプルでややもの足りないかもしれませんが、いかにもヨーロッパらしい味わいのあるものでした。

サウンズの「さすらいのギター」は次のCDで聴くことができます。
  

2006年05月12日

【来日ライブ日記】ショッキング・ブルー(1971年)補足

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偶然、ショッキング・ブルーの当日のチケットが出てきました。
思い違いや勘違いがあったので補足します。

shockingticket.jpg

チケットを見てなにより驚いたのが、1910フルーツガム・カンパニーとジョイント・コンサートだったことです。
音楽的に似た点もありますので、あまり違和感の無い組合せだったかもしれません。
1910のライブについては、いずれまた書こうと思います。

次に、会場が間違っていました。
東京は厚生年金会館でしたが、大阪はフェスティバルホールでした。
このころは、まだコネも金もなかったので2階席でしたが、そんなに広くない会場ですので、充分楽しめました。
ただ、ボーカルのマリスカは髪の毛が今で言うアフロでしたので、2階席からでは巨大なアフロに邪魔されて顔はよく見えませんでした。

私の行った日時は8月8日ですが、ライブ盤が収録されたのが東京での7月28日および30日ですので、かなり長く日本に居たようです。東京大阪以外でもコンサートをしていたのでしょうが、定かではありません。  
Posted by popandrock at 01:40Comments(2)TrackBack(0)来日ライブ日記

2006年05月02日

【来日ライブ日記】ショッキング・ブルー(1971年)

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今では、ショッキング・ブルーと言えば、様々なアーチストによって何度もカバーされている「ヴィーナス」1曲の一発屋のように思われがちですが、実際は1970年から1971年にかけて日本でたくさんのヒット曲を飛ばしたオランダ出身の人気グループでした。
当時、60年代のシンプルな演奏のバンドの人気は凋落し、いわゆるハードロックや複雑なアレンジのバンドの全盛期でした。そんなさなか、ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」が全米で1位となり、更に全世界でヒットしました。
評論家から「こんな古めかしい曲のどこがいいんだろう」と酷評されましたが、逆にその古めかしさがかえって新鮮に聞こえ、一般の聴衆に受け入れられました。
また、ロックバンドでありながらヴォーカルが女性というのも、当時としてはめずらしいものでした。

shockingblue1

特に日本では人気が持続し、「ヴィーナス」以後もヒットが続きました。
・マイティ・ジョー
・明日に向かう道
・悲しき鉄道員
・グッド・サリー
・ショッキング・ユー
・悲しき恋心

現在入手できる日本盤は次の2種があります。



左は1枚物で、日本のみのヒット曲が一部欠けています。
右は2枚組で、若干高価ですが「ショッキング・ユー」等も収録されています。

来日したのは、人気絶頂だった1971年の7月です。
東京でも大阪でも厚生年金会館でした。
元々、レコードでもシンプルな演奏でしたので、ライブもレコードとあまり変わりがありませんが、マリスカ・ヴェレスの迫力あるボーカルには圧倒されました。
マリスカは思った以上に背が低く、ちょっと小太りの割に脚が細かったのが印象的でした。
ライブはいきなり「ヴィーナス」で幕を開けました。そして日本でのヒット曲を次々と聴かせてくれたのはいいのですが、最大のヒット「ヴィーナス」は既に1曲目に演奏してしまっており、締めの曲はどうするのかなと思っていたら、なんと最後にもう一度「ヴィーナス」を聴かせてくれました。

後に、この時の東京での演奏を収録したライブ盤LPが発売されました。

shockingblue2

ただ、このライブ盤はCD化されておらず、残念なことにLPでしか聴けません。  
Posted by popandrock at 02:05Comments(0)TrackBack(1)来日ライブ日記

2006年04月28日

【来日ライブ日記】チャック・ベリー(1981年)

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チャック・ベリーはロック創成期から1970年代初頭にかけて英米で多数のヒットを飛ばしたことはもとより、なによりも、ロック史上最もカバーされた曲の多いアーティストとして有名です。
ビートルズがカバーした「ロックン・ロール・ミュージック」、ビーチボーイズの「サーフィンUSA」、ストーンズのデビュー曲「カモン」など、枚挙にいとまがありません。
日本ではチャック自身の演奏でヒットした曲は1曲もありませんので、彼自身の演奏を聴いたことがない方が多いと思いますが、ロックの定番とも言える「ジョニー・B・グッド」はじめ、どこかで他のアーティストの演奏で彼の作品を聴いたことがあると思います。

一度彼の演奏を聴いてみたいと思われるかたには、次のCDがお奨めです。
彼自身のヒット曲のみならず、他のアーティストが好んでカバーした曲もほぼ漏れなく収録されています。
例をあげると、メイベリーン、モンキー・ビジネス、ロール・オーヴァー・ベートーベン 、.リーリン・アンド・ロッキン、アラウンド・アンド・アラウンド 、キャロル、メンフィス、等です。



私が行ったライブは、1981年の初来日の時です。
大阪公演は厚生年金会館でした。

この時、既に彼は55歳。
しかし、彼自身の歌と演奏は全盛期に負けず劣らずエキサイティングなものでした。
売り物とも言える、「ダック・ウォーク」もしっかり見せてくれました。
「ダック・ウォーク」とは、ギターを演奏しながら横向きにしゃがみ込み、片足をピンと前に延ばしてかかとで地面をたたきながら左右に動き回るパフォーマンスです。
日本でも、ロックン・ロール系のアーティストがマネをすることがありますので、見たことがある方もおられると思います。

ただ、この初来日のライブで残念だったのは、バックバンドの演奏がお粗末だったことです。
チャックが連れてきたのは白人のベース奏者だけで、ドラムスとピアノは若い日本人でした。
このベース弾きのおじさん自身の演奏が下手くそだった上に、二人の日本人がこのおじさんの顔色を見ながら恐る恐る演奏しているために、全く乗りが悪いのです。
また、恐らく、ろくにリハーサルをしていなかったようで、曲の終わりもなかなかピシッと決まらず、だらしなく曲が終わることも多々ありました。
ソロ歌手の海外ツアー場合、当時はバックバンドを現地調達することが多かったので仕方ないかもしれませんが、この点だけが残念でした。
しかし、生のチャックを見、生の歌とギター演奏を聴け、楽しい一時を過ごすことができました。

この来日時のライブ盤はありませんが、1972年のロンドンでのライブ盤はCDで入手できます。



バックバンドも出来が良く、また、チャックの脂の乗りきった時期でしたので、ライブならではのエキサイティングな演奏を聴くことができます。
こちらは試聴もできますので、是非一度聴いてみて下さい。  
Posted by popandrock at 00:42Comments(3)TrackBack(0)来日ライブ日記

2006年01月29日

【1970年頃の大阪の音楽シーン】ダンスホール富士 (PART 2)

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前回、ダンスホールは1階と書きましたが、ダンスフロアーは地階だったかも知れません。
主にダンスフロアーに出演するロック系バンドの楽屋が地階にあり、そこから階段を登ってステージに上がる構造になっていたのでダンスフロアーは1階かと思ったのですが、どうもその階段は1階に登る階段とは別の階段で、ステージに登るための短い階段だったような気がします。記憶があいまいで申し訳ございません。
なにぶんこのビルには窓が一切無く、中に居ると、果たしてそこが何階なのか分からなくなってしまうのです。

もう1点前回の補足です。
バンドのギャラは1バンドあたり何円と決まっていると書きましたが、厳密に言えば、バンドのメンバーは何人で、まとめて何円と言う形でリーダー(業界用語では「バンマス」)に支払われました。
従って、いかなる理由があろうとステージには決められた人数が揃っていなければなりません。
富士は年中無休でしたので、バンドも無休です。(年末年始は休みだったかも?)
どう考えても、一日も欠かさずメンバー全員が揃うことは不可能ですので、ごくまれに人数が足らなくなってしまうことがあります。
この業界は甘くありませんから、万一ステージに上がる人数が足らないと、リーダーは会社からキツーく叱られます。
また多額の罰金を徴収されたり、休憩時間の外出禁止等が課されます。

これを避けるために、リーダーは自腹をきってでもフリーのミュージシャンを雇ってきます。
あくまでも人数合わせですから、誰でもいいのです。
休みのメンバーの担当楽器が弾けなくてもかまいません。
音楽関係の方はご存知と思いますが、この応援のことを「トラ」(「エキストラ」の略)と言います。
バンド用語としては、通常は逆さにして「ラート」と言います。  

2006年01月25日

【日本でだけ大ヒット】愛の聖書★★★クリス・モンテス

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クリス・モンテスは1962年に「レッツ・ダンス」のヒットを飛ばし、アメリカでは名前の知られたPOPS系の歌手でしたが、その後ヒットに恵まれず、60年代後半にはAOR(大人向けのソフトなロック)に転向し、数枚のアルバムをA&Mレコードから発表しました。
アメリカではある程度の評判を得ましたが、日本ではヒットに恵まれませんでした。

ところが、日本でのA&Mレーベルの発売元のキング・レコードは、そんなアルバムの中に日本人向けの曲を見つけ出し、シングルとして発売したところ、大ヒットとなりました。
それが「愛の聖書」(原題は"Nothing To Hide")です。
ちなみに、作詞作曲はクリス・モンテス自身です。

nothingtohide

「愛の聖書」のmidiはこちらで聴くことができます。

ところで、元々この曲をご存知の方、あるいはMIDIをお聴きになった方は、この頃に流行った辺見マリの「経験」とよく似ているのに気付かれたと思います。
この辺の事情について少しお話ししたいと思います。

時間は少しさかのぼりますが、50年代から60年代前半にかけては、アメリカで日本人好みの曲が流行ると、日本人歌手が日本語の歌詞をつけてカバーしていました。
どちらかと言うと、カバー版の方がオリジナル版よりよく売れました。
ビートルズの初期のころには、まだまだカバー版も出されており、「抱きしめたい」や「プリーズ・プリーズ・ミー」など、カバー版もヒットしました。
しかし、「愛の聖書」(1969年)ころにはカバー版よりオリジナル版の方が圧倒的によく売れるようになり、カバー版はほとんど作られなくなりました。

代わって盛んになったのが、アメリカのヒット曲の一部をまねて新しい曲を作ることでした。
そんなわけで、「愛の聖書」が出た直後、誰が真っ先にヒットさせるか話題になったのですが、結局、「経験」がヒットしたと言う訳です。
他に、リン・アンダーセンの「ローズ・ガーデン」をマネた南沙織の「経験」等があります。

「愛の聖書」を含むクリス・モンテスのベスト盤。「愛の聖書」はじめ日本でだけ大ヒットを多数収録。


  

2006年01月20日

【1970年頃の大阪の音楽シーン】ダンスホール富士 (PART 1)

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前回紹介した「ナンバ一番」は大阪唯一のジャズ喫茶として有名ですが、その他にもロック系バンドの生演奏が聴けるスポットはいくつかありました。
その中で、最大の観客収容数と専属バンド数を誇っていたのが、宗右衛門町にあった「ダンスホール富士」です。
戎橋の北詰の道を東に約50m、ドンキホーテの向かい、宗右衛門町モータープールがその跡地です。
小さなビルが密集している宗右衛門町の中では、ずば抜けて大きいビルでした。

その歴史は古く、戦後まもなく「富士ビル」として誕生しました。
1階はダンスホール、2階は飲んで食べれるサパークラブ(パテオ富士と言う名前でした)、3階はキャバレーになっており、いわゆる総合娯楽施設でした。

「ダンスホール富士」は元々社交ダンス用に作られたもので、1階のほぼ全てを占める広いダンススペースがあり、北の端が1段高いステージになっていました。
早い時間帯は社交ダンスタイム、夜になるとロックタイムでした。
社交ダンスタイムは客も少なく、年齢層の高いみなさんが広々としたスペースで自由に踊っていました。
演奏は主にビッグバンドによる生演奏で、3階のキャバレーと共通でした。

ロックタイムになると様相が一変します。
3〜4の専属バンドが常駐しており、1ステージ20〜30分程度で交替し、全て生演奏でした。
平日のロックタイムは夜だけでしたが、土日は午後からロックタイムが始まりました。
平日は専属バンドのみですが、土日は外人バンド等のゲストが呼ばれ、豪華なステージでした。

ただ、このホールは、演奏するバンドにとって音響設備に問題がありました。
現在ではPA設備が充実し、ステージ上ではそんなに大きな音を出さなくても客席では適切なボリュームの演奏が聴けます。
しかし、当時はそのような設備は日本ではまだ普及しておらず、富士のように数百人収容できる大きなホールでは、ドラムスは力まかせに叩き、エレキ等アンプを使う楽器はアンプ自体のボリュームを上げるしかありませんでした。
楽器を担当するメンバーはこれでも演奏に支障はないのですが、問題はボーカルです。
富士に限らず、当時は、ボーカル用のモニタースピーカーは無く、唯一客席から漏れ聞えてくる音だけが頼りでした。
ところが、富士の場合、バカでかい音の演奏をしているわけですから、その音にかき消されて、ボーカルには自分の声はほとんど聞えないのです。
バンドのギャラは人数にかかわらずバンド全体で何円と決まっていましたから、人数が少ないほど一人当たりの取り分が多くなって得なのですが、楽器を演奏しながら歌うのは難しく、どのバンドも専門のボーカルを設けていました。

富士出身で後にメジャーになったバンドや歌手はおらず、そのためか、大阪一の規模を誇ったダンスホール富士も今ではあまり語られることも無く、当時、ミナミで青春時代を過ごした団塊世代やそれ以前の世代の記憶中に残るのみです。  

2006年01月14日

【1970年頃の大阪の音楽シーン】ナンバ一番

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大阪が、東京に次ぐ音楽発信の地として重要な地域であることは今も昔も変わりはありません。
ところが、ROCKの分野に限って言うと、大阪が全くパワーを無くしていた時期がありました。
それが1970年前後です。

60年代後半については、後にグループサウンドブームの火付け役となった沢田研二率いるタイガースはじめ多数のグループサウンズを輩出した地として、活字あるいはネット上でその様子を知ることができます。
また、70年代以降についても情報が豊富に残されています。
ところが、1970年前後については、後にメジャーになるようなミュージシャンも皆無に等しく、大阪のミュージックシーンもほとんど語られることもありません。
そこで、私の知る限りにおいてここで紹介したいと思います。

なぜこの時期が暗黒の時代であるのか。。。
その最大の理由は、元々ROCK系のミュージシャンが活動する場所が少なかったことによります。
ROCK系ミュージシャンが活躍できる今のライブハウスにあたるスポットは、当時、ジャズ喫茶と呼ばれていました。
60年代から70年代にかけて、東京には銀座ACB(アシベと読む)はじめ多数のジャズ喫茶がありました。一方、大阪には「ナンバ一番」1軒しかありませんでしたが、この「ナンバ一番」は、タイガースやオックスなどがメインバンドを勤め、盛況を博していました。

しかし、彼らが活動の場を東京に移し、さらにGSブームが去るとともに、さすがに「ナンバ一番」も勢いを無くし、69年ころ、ついに閉鎖されてしまいました。
「ナンバ一番」を中心に活動していたROCK系のプロやセミプロのミュージシャンは、あるものは引退し、あるいは歌謡曲に転向するなどちりじりに分かれて行きました。
もちろん、「ナンバ一番」以外にもROCK系の演奏ができるスポットはいくつか存在しました。
その話しは次回に。

なお、「ナンバ一番」は後にパチンコ屋として再開し、阪神タイガース優勝時のダイビングで有名な戎橋(通称、ひっかけ橋)の南詰めに、今も存在します。
パチンコ「ナンバ一番」のHPはこちら
但し、ジャズ喫茶「ナンバ一番」があったのはこの場所ではありません。今の店の戎橋筋をはさんだ向かい側、TSUTAYAのある所です。大きなカニの看板で知られる「かに道楽」の向かいと言ったほうが分かりやすいかも知れません。  

2005年10月05日

【来日ライブ日記】グランド・ファンク・レイルロード (1971年)

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大阪公演は、東京が後楽園球場であったのと同様に今は無き大阪球場で行われました。

ロックバンドが大規模なPA(=音響装置)を使って球場等でライブコンサートを開くのは今では当たり前のことですが、当時はアメリカでもめずらしく、まして、日本ではこのグランド・ファンク・レイルロード が初めてと言うことで来日前から日本中のロックファンは期待に胸を膨らませていました。
おまけに、当時ちょうど「孤独の叫び」が日本でも大ヒット中であり、しかもアメリカでのライブを収録したライブ盤アルバムもリリースされており、ベストタイミングでの来日でした。

後楽園球場では嵐の中の公演だったそうですが、大阪でも、嵐と言うほどでもなかったのですが、雨の中の公演でした。
内容はアメリカ公演とほぼ同じで特に新鮮味は無かったのですが、ともかく、初めて経験する大音響の中で、あっと言うまに時間が過ぎて行きました。

アメリカ公演のライブアルバムは今でもロープライスのCDで聴くことができます。

ライヴ・アルバム
グランド・ファンク・レイルロード
ロープライス Y 1,796
新品 Y 1,796

今から思えば、特にボーカルが良いわけでもなく、ギターのマーク・ファーナーも大したテクニックでは無かったのですが、大音響を生かしたパフォーマンスでファンを楽しませてくれた功績は大きいと思います。
ただし、ワンパターンなサウンドでヒットが続くはずもなく、この来日を境にブームは去り、この後、「アメリカン・バンド」と「ロコモーション」の2曲のヒットを残して忘れ去られていきました。  
Posted by popandrock at 02:34Comments(0)TrackBack(0)来日ライブ日記

2005年08月03日

【日本でだけ大ヒット】孤独の世界★★★P.F.スローン(Part 2)

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P.F.スローンの「孤独の世界」の続きです。

「孤独の世界」のmidiはこちらで聴くことができます。

日本で「孤独の世界」がヒットしていると言う知らせは、すぐにP.F.スローンの耳に入り、本人はただちに来日するつもりでいたようですが、セッティングするスタッフに恵まれず、来日は果たせませんでした。
ところが、日本でのP.F.スローンの人気は根強く、彼がアメリカでライブをすれば必ず日本からファンが聞きに来ていたようで、90年代に入り、久々にレコーディングしたアルバムが日本でだけ発売されたのを機会に、1995年、ついに初来日しました。

ここで、この曲の歌詞の話をしたいと思います。

当時も今も、日本盤には歌詞とともに和訳が掲載されていることがよくあり、この曲の場合はシングルが2度発売されたため、2種類の和訳が存在します。

例えば2番を取り上げてみます。
原文は、

Have you ever seen a star fall from the sky
From a distance it looks like heaven's lost an eye
From a distance, from a distance, it looks like heaven's lost an eye
Now there's one less chance for god to see you and I
    星が空から流れ落ちて来るのを見たことがあるかな
    遠くから眺めていると
    天の神様が片眼をなくしてしまったように見えるよ
    君や僕を神様に見てもらえるチャンスが1回減ってしまうね
                         (訳:DAYS)
最初に出たビクター版では
 遠くの流れ星を見たかい
 あれは神様の目が落ちたんだ
 もう神様は僕等を見ることが出来ないじゃないか

少し、はしょってありますが、原文の意味はほぼ表現されています。

次に、ヒットした東芝版では
 流れ星を見た事があるかい
 神様の眼のような美しい流れ星を
 もう我々の神にはたった一つの眼
 たった一つのチャンスしか残ってないんだ

単に訳語を並べただけでまったく意味不明です。

ちなみに、ビクター版の訳者はTBSの北山幹男氏、東芝版の訳者はニッポン放送の亀淵昭信氏です。
さすがTBS、やっぱりなあニッポン放送、と言う印象です。

※訳文メモ
1行目は「流れ星」と訳したほうがいいのかも知れませんが、2行目との関係から「空から」を生かした方が良いと思い、回りくどい表現ですが「星が空から流れ落ちて来る」としました。
2行目の heaven はこの場合「天」「天国」ではなく「神様」です。お二人とも正しく訳されています。
4行目の one less は「1つ少ない」です。「1つ残る」ではありません。
また、you and I は文法的には you and me となるべきですが、前の行の eye と韻を踏むために敢えて me ではなく I が使われています。英語の世界ではよくあることです。
なお、you and I は文法的に誤りなので、you and eye と歌っているんだと言う説がありますが、you and eye の方こそ文法的にお誤りである上に、英語としてあり得ない表現です。更に、歌詞全体を通して読めば、ここには「眼」ではなく「私」がふさわしいと分かると思います。  

2005年07月30日

【日本でだけ大ヒット】孤独の世界★★★P.F.スローン(Part 1)

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ある意味で、P.F.スローンは非運のアーティストです。
60年代に数々のヒット曲を書き、自身でも多くの曲を演奏したにもかかわらず、本国アメリカではビッグになるチャンスに恵まれませんでした。
彼が作曲した作品のうち、日本でもヒットした曲を何曲か挙げると、
「明日なき世界」バリー・マクガイア
「秘密諜報員」ジョニー・リバース、ベンチャーズ
「あの娘にご用心」ハーマンズ・ハーミッツ
「青春の渚」ジャンとディーン(←この曲も日本でだけヒット)

そんな彼が唯一P.F.スローンの名前でビッグヒットを放ったのが日本であり、その曲が今回紹介する「孤独の世界」です。
この曲は、当時、フォークロックと呼ばれ、メロディーはフォークソング的なシンプルなものながらバックの演奏はロック、と言う60年代後半に流行のスタイルです。
「孤独の世界」が当時の日本のフォークソングに及ぼした影響は大きく、類似のメローディーの曲、あるいは、この曲のアレンジをまねた演奏のレコードが多数見られました。

元々P.F.スローンは60年代前半、サーフィン・ミュージックの分野で活躍していました。
特に、当時この分野でビーチ・ボーイズと人気を2分していたジャンとディーンに気に入られ、バック・ミュージシャンとして多数のセッションに参加しました。
ジャンとディーンの代わりにP.F.スローンが歌った曲もあった程です。

ところが、それまでギター1本のシンプルな伴奏でフォークソングを歌っていたボブ・ディランが、突然ロックバンドをバックに歌い始め、アメリカ中に大きな衝撃を与えました。
P.F.スローンもその一人であったようで、ボブ・ディラン流にメッセージ性の強い曲「明日なき世界」を書き、これを、バリー・マクガイアがリリースしたところ全米1位の大ヒットとなりました。

数々のヒット曲を書いていたP.F.スローンですが、彼はあくまでもルー・アドラーと言うプロデューサーに週給何ドルで雇われていたスタッフにしか過ぎませんでした。
したがって、P.F.スローンにたくさん曲を書かせ、他のアーチストに取り上げてもらえば、ルー・アドラーは丸もうけとなるわけで、そのためのデモテープ代わりに多数の曲をレコーディングさせ、自身の経営するダンヒル・レコードから順次発売していきました。
元々ルー・アドラーはP.F.スローンを歌手として大々的に売り出すつもりはなかったわけですから、ダンヒルから発売された7枚のシングルのうちヒットしたのは「大人は知らない」くらいでした。

当初、日本ではビクターにダンヒル・レコードの配給権があり、数枚シングルがリリースされました。
その中には「孤独の世界」もありましたが、ほとんどヒットしませんでした。

fromadistance1



ところが、運命と言うものは分からないもので、1969年に日本での発売権が東芝に変わってチャンスが訪れました。
一般に発売権を新たに獲得した場合、過去のカタログを再点検して日本向けの曲があれば再発売し、強力にプッシュしてヒットすることが多いのですが、東芝は「孤独の世界」に目をつけ、1969年9月10日、ダンヒル獲得第1弾として発表しました。
fromadistance2


発売、即ヒット、と言うわけにいきませんでしたが、日本人好みのシンプルで美しいメローディは広く受け入れられ、ロングセラーとして愛されました。

ただ、残念なことに、日本だけのヒットであり、また、ダンヒルの発売権が数回移動した関係で、早く廃盤になり、入手困難になってしまいました。
1993年にアメリカで発売されたP.F.スローンのCD"Anthology"にはこの曲は収録されていません。
現在、日本でこの曲を聴くことができるのはミリオン・ヒッツ・コレクションと言う6枚組CDだけのようです。

「孤独の世界」のmidiはこちらで聴くことができます。

後日談と歌詞の内容については、Part2で。  

2005年07月14日

【来日ライブ日記】エマーソン、レイク&パーマー(1972年)

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エマーソン、レイク&パーマー(略してEL&P)は1970年にデビューしたイギリスのバンドで、当時、やっと普及し始めたばかりのシンセサイザーをメインにした演奏を特徴とし、いわゆるプログレッシブのはしりです。

代表作はアルバム「展覧会の絵」です。

EL&P


ムソルグスキー作曲の同名作品のライブ演奏をそのままアルバムにしたもので、日本でも大ヒットしました。
こちらで試聴できます。
更に、日本ではこのアルバムの最後にオマケのように収録されていた「ナット・ロッカー」(チャイコフスキーの「クルミ割り人形」)もよくエアプレーされていました。

来日したのは、彼らの名前が日本に浸透した1972年です。
東京での公演は後楽園球場でした。
東京での様子はこちらに書かれています。

東京公演は無事に行われたようですが、一方、大阪公演は演奏途中で中断、そのまま打ちきりになるという残念な結果に終わりました。
よく、演奏開始前、マナーが守られない場合は公演を中止しますと言う注意事項がアナウンスされることがありますが、実際に中止された珍しい例です。

当時、大阪球場や府立体育館が、大阪で多数の観客を収容できるライブ会場として使われていまいた。
ところが、EL&P公演の会場は、甲子園球場でした。
それまで、来日アーチストの公演が甲子園球場で行われたことはなく、驚いたものです。

東京公演と違い、6月にもかかわらず甲子園は天候にも恵まれ、無事演奏が始まりました。
現在のようなコンパクトなシンセサイザーと異なり、球場グランドの中央付近に設営されたステージ上はバカでかい機械で埋め尽くされ、彼らはそのスキマで演奏していると言う感じでした。
演奏が進行し、かなり盛り上がって来たところで、シンセ奏者のキース・エマーソンによるパフォーマンスが始まりました。
その時、ハプニングが発生しました。

彼のパフォーマンスは、キーボードを離れてステージから下り、STAR WARSのライト・セイバーのようなものを手に持ってグランド走り回るというものでした。
どう言うしくみか分かりませんが、そのライト・セイバーの動きに合わせて音が変化します。
ところが、このパフォーマンスに興奮したのか、一部の観客が客席とグラウンドとを隔てる金網によじ登り、暴れ始めました。
そして、ついに何人かの観客が金網を乗り越えてグランドに乱入しました。
それを見て、他の観客も次々にグランドに飛び降り、グランド内は大混乱になりました。

EL&Pは逃げるようにグランドから去り、球場のライトが全て点灯されました。
そのまま終了です。
残されたものと言えば、あちこちで破れたり変形してしまった金網と、グランド内で追いかけっこをしている警備員と乱入者たち、そして、むなしく帰っていく観客達だけでした。

その後、甲子園球場では、2度と来日アーチスト公演は行われませんでした。  
Posted by popandrock at 01:53Comments(0)TrackBack(0)来日ライブ日記

2005年06月30日

【日本でだけ大ヒット】ロック・アンド・ロール・ミュージック★★★ビートルズ

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ビートルズの「ロック・アンド・ロール・ミュージック」が大ヒットと聞いて意外に感じられる方もおられるかも知れません。
実は、大ヒットどころか、60年代、日本で発売されたビートルズのシングル盤の中で一番売れたのはチャック・ベリーのカバー曲「ロック・アンド・ロール・ミュージック」だったのです。
70年代以降に彼らの音楽を聞き始めた方々には理解しがたいことかもしれませんが、これが60年代の日本の状況だったのです。

現在、彼らの楽曲はイギリスEMIの完全に管理されており、世界中どの国でも同じCDが販売されています。
国ごとに人気の高い曲は異なっているにもかかわらず、その国のファン向けに編集盤を発売したり、シングルカットすることはできません。
ところが、彼らのデビュー後数年間は各国で自由に編集盤を発売したり、その国で売れそうな曲をアルバムから自由にシングルカットすることができました。

日本でも、「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」等、彼らのオリジナルシングルも発売されましたが、それに加え、日本人向きの曲をアルバムから選曲してシングルカットされました。
もちろん、オリジナル曲もヒットしましたが、やはり、個性の強い彼らのサウンドは当時の日本では一般向けではなく、むしろ、日本人がなじみやすいカバー曲の方がセールスが好調でした。
例えば、「プリーズ・ミスター・ポストマン」の方がオリジナル曲より格段によく売れました。

pleasemisterpostman.jpg



そして、彼らの初の映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」が日本でも公開されました。
もちろん主題歌の「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day's Night)」は大ヒットしましたが、当時日本でよく売れたのは、アルバムからシングルカットされた日本人好みのメロディを持つ「恋する二人」でした。

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続いて発売されたオリジナルシングル「アイ・フィール・ファイン」は、日本ではあまり売れませんでしたが、ほぼ同時期に発売されたアルバム「Beatles For Sale」には、日本人好みの曲が多数収録されていたため、日本独自にほとんどの曲がシングルカットされました。

その中の1枚が、「ロック・アンド・ロール・ミュージック」でした。

rockandrollmusic.jpg



ちなみに、66年の来日公演のライブでのオープニング曲は「ロック・アンド・ロール・ミュージック」でしたが、これは、日本での最大のヒットシングルが「ロック・アンド・ロール・ミュージック」だと聞いた彼らが、それまで海外ツアーでは一度も演奏したことのなかったこの曲を、わざわざ日本のファン向けに演奏してくれたものです。

なお、イギリスでの彼らの最大のヒット曲は「シー・ラブズ・ユー」でした。

「シー・ラブズ・ユー」のmidiはこちらで聴くことができます。

★ビートルズの代表曲と言えば「ロック・アンド・ロール・ミュージック」★

これは当時の日本の常識世界の非常識ということになります。
  

2005年05月29日

【日本でだけ大ヒット】孤独の太陽★★★ウォーカー・ブラザーズ

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辛口の評論で知られる竹村健一の最近の著書に「日本の常識世界の非常識」と言うのがあります。
「金持ちと貧乏人のいる社会は悪だ、銀行振込には手数料がかかる、会社は社員のためにある、北朝鮮国民は餓死寸前……これらは日本人のカン違い。気づいた人だけが成功する、世界の常識を解説」するのだそうです。

これを音楽の世界にあてはめると、「この歌手の代表曲と言えば〜〜〜に決まってる」が意外と世界の非常識である場合がよくあります。
そんな例として、今回はウォーカー・ブラザーズを取り上げます。

イギリスでの彼らの最初のヒット曲「涙でさようなら」と、それに続く「太陽はもう輝かない」は、当時、日本では大したヒットにはなりませんでした。
ただし、日本ではヒット曲が無いにもかかわらず、音楽雑誌の誌上では、ビートルズを凌ぐ人気とか言う触れ込みで彼らのイギリスでの加熱ぶりだけは報道され、名前と顔だけは知られていました。

そんな状況の中、彼らの1枚目のアルバムから日本独自にシングルカットされたのが「孤独の太陽」です。
元々この曲は、アメリカのコニー・スティーヴンスがオリジナルですが、聞き比べると、ウォーカー・ブラザーズ版はまるで別の曲に聞こえるくらい見事にアレンジされていることが分かります。

busstop.jpg


当時、日本ではアルバムを買えるのはほんの一部のお金持ちの子供たちだけでしたから、庶民の子供たち向け(私もその一人ですが)けっこう日本独自のシングルカットは多かったのですが、「孤独の太陽」については、彼らの日本での最初の大ヒットとなりました。

続いて、イギリスでのヒット「やさしい悪魔」が日本ではマイナーヒットに終わるや、レコード会社はまたまた日本独自のシングルカットに踏み切りました。
2枚目のアルバムの1曲目に収録されていた、「ダンス天国」です。

busstop.jpg


この曲も、オリジナルはアメリカのウィルソン・ピケットで、当時、日本ではどちらのバージョンもヒットしましたが、最終的にはウォーカー・ブラザーズの圧勝でした。

★ウォーカー・ブラザーズの代表曲と言えば「孤独の太陽」と「ダンス天国」★

これは日本の常識世界の非常識ということになります。

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更に、「ダンス天国」に続く日本でのヒット曲「二人の太陽」も、彼らの3枚目のアルバムから日本独自のシングルカットで、日本独自続きです。

なお、日本独自と言えば、
彼らは1967年5月に解散しましたが、日本での人気は衰えず、ついに翌年1月に日本でのみウォーカー・ブラザーズとしてライブツアーを行いました。

日本独自続きというより、日本独自づくしですね。

上に挙げたヒット曲を網羅している日本盤CDは
ダンス天国~ウォーカー・ブラザーズ
ウォーカー・ブラザーズ
ロープライス ¥1,696
新品 ¥1,696

格安なイギリス盤もあります。こちらは試聴もできます。
The Collection
The Walker Brothers
ロープライス ¥654
新品 ¥992

「孤独の太陽」のmidiはこちらで聴くことができます。
  

2005年05月16日

【来日ライブ日記】ホリーズ(1968年)

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通常、関西での公演は大阪で行われるものですが、なぜかホリーズは京都でした。
平日と言うこともあり、行けませんでした。

と、言うことで、
今回のホリーズの来日ライブ日記は、テレビでの鑑賞日記です。
申し訳ございません。

busstop.jpg

当時、来日アーチストの公演のライブ中継は、ビートルズなどの超有名人以外はテレビで放送されることはありませんでした。
しかし、今で言う「ミュージック・ステーション」のような番組がいくつかあり、ホリーズも2〜3の番組に出演して演奏しました。

私が見たのは2つの番組で、
一つの番組での曲目は
  「バス・ストップ」
  「ストップ・ストップ・ストップ」
もう一つの番組では
  「バス・ストップ」
  「ジェニファ・エクルズ」(当時の新曲)
だったと思います。

ただ、彼らは音響設備の整ったステージでしか生演奏はしない主義でしたので、バックにはレコードを使用し、生のボーカルをその上に重ねると言う方法がとられました。
それでも、来日前に映画で見ることが出来たビートルズなどと違って、動くホリーズを見る機会はそれまでまったく無かったわけですから、生きてて良かったと思えるくらいの感動ものでした。
まして、全くの口パクでは無く、「バス・ストップ」ではハーモニーの付け方がレコードと微妙に違ったりしていて興味津々でした。

ありがたいことに、東京公演での演奏曲目を記録しておられる方がおられるようで、こちらで見ることができます。

彼らのCDは多数発売されていますが、初期のヒット曲を網羅していてしかも格安なのは

エッセンシャル・コレクション
ホリーズ
ロープライス ¥1,153
新品 ¥1,200

「バス・ストップ」のmidiはこちらで聴くことができます。

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なお、後に、当時の関西での超人気ラジオ番組「ヤング・タウン」にホリーズが出演していたと言う話しを聴きました。
当時の「ヤング・タウン」は大阪千里のMBSスタジオに観客を入れて夕方に収録し、その日の深夜に放送すると言う「半ナマ」の音楽&御笑い番組でした。
確かに、けっこう大物タレントがゲストとして出演していましたが、ホリーズのような来日タレントが出演したとは思えません。
実は、そのころ、名字が「堀」と言う兄弟のアマチュア・フォークソング・デュオがいまして、そのバンド名が「ホリーズ」(=堀ーズ)でした。

本物の「ホリーズ」だったんでしょうか?
堀兄弟だったんでしょうか?
  
Posted by popandrock at 00:27Comments(1)TrackBack(1)来日ライブ日記

2005年05月08日

【日本語タイトル傑作選】想い出のヨコハマ★★★ボビー・シャーマン

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一般に、日本語タイトルはレコード会社の担当者が決めるそうですが、英語タイトルをそのままカタカナにしただけの場合は別として、日本語に直したタイトルの中には感心するほどの傑作もあれば、思わず笑ってしまう珍作、担当者の常識を疑うような愚作など面白いものがたくさんあります。

今回は、まず名作を一つ紹介します。

ボビー・シャーマンは60年代後半から70年代はじめにかけて、アメリカで絶大な人気のあったアイドルでした。
日本でも、アメリカほどではないにしても、全盛期には何曲かヒットがあり、来日公演もしました。
そんなヒット曲の一つが「想い出のヨコハマ」です。

bobbysherman

タイトルだけ見ると、当時よくあったように、来日記念盤として日本向けに録音された曲のようですが、実はそうではありません。
原題は、「Oklahama City Times」と言います。
アメリカではシングルでは発売されず、彼の3枚目のアルバムから日本独自ののシングルカットです。

いくらなんでも、「オクラハマ」が「ヨコハマ」に聞こえるはずが無いと思われるでしょうが、
実際聴いてみると、これが「ヨコハマ」に聞こえるのです。
タイトルは「Oklahama City Times」ですが、歌の中では前に「the」が付きます。
歌詞の一節を引用します。
But I gotta be more than just two lines in the Oklahoma City Times

この「the」は、誰でも学校で習ったように、後が母音ですので「ザ」ではなく「ズィ」です。
したがって、続けて発音すると「ズィ」とつながって、「オクラハマ」が「ヨクラハマ」になり、早く言うとほとんど「ヨコハマ」に聞こえてしまいます。ちょうど、深夜テレビの「空耳アワー」です。

歌詞の全文はこちらにあります。

命名した、当時の発売会社「日本コロンビア」の担当者のアイデアに脱帽です。

現在、ボビー・シャーマンの日本盤CDは出ていませんが、アメリカでのヒット曲を集めた輸入盤は入手できます。
全曲、試聴もできます。
The Very Best of Bobby Sherman
Bobby Sherman
ロープライス ¥1,311
新品 ¥1,692

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なお、「想い出のヨコハマ」は日本独自のシングルですので上のベスト盤には入っていません。
この曲を含む3枚目と、その前の2枚目のアルバムを1枚に収録したCDが入手可能です。

Here Comes Bobby/With Love, Bobby
Bobby Sherman
ロープライス ¥1,233
新品 ¥1,692

いずれも輸入盤ですので歌詞は付いていませんが、こちらでほとんどの曲の歌詞を見ることができますので、問題は無いと思います。
  

2005年05月03日

【来日ライブ日記】T.レックス(1972年)

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1972年に初来日し、大阪公演は「スリー・ドッグ・ナイト」と同様に大阪府立体育館で行われました。

しょせん体育館ですので、ちゃんとした楽屋もありません。
ところが、それが幸いして、いい目ができました。
開演直前、たまたまステージ近くの通路に居たのですが、通路の一部が金網で仕切られていて、ふと気がつくと金網の向こうのドアが開いて派手な服を着た長髪の人物が出てきました。
まさかと思ったのですが、誰かが「マークーーー」と叫ぶとこちらを向いて手を振ってくれました。
マーク・ボーランでした。
金網越しとは言え、2〜3メートルの距離から「楽屋を出てステージに向かうマーク・ボーラン」を目撃できたのはラッキーでした。

会場は、体育館フロアの一部に1mくらいの高さのステージを設けただけですので、とても見やすかったのですが、私は最前列でしたので、下から見上げるようなことになり、ちょっと首が疲れた記憶があります。

メンバーはギター&ボーカルのマーク・ボーラン、パーカッションのミッキー・フィン、そしてベースとドラムスの4人だけでした。時期によっては、もっと人数が多かったようですが、来日時はこの4人でした。
一応、当時のT.Rexはマークとミッキーの2人組バンドと言うことになっていましたが、実際には作詞作曲演奏ボーカルの全てをマーク一人でこなしていました。
雑誌等でみた写真ではミッキーは横でボンゴを叩いているだけでした。
まさか、ボンゴを始めから終わりまでポコポコだけではないだろうと思っていましたが、実際はそのまさかでした。

現在の日本の2人組ロックバンドの代表格「B'z」に例えると、
ステージで中心になるのはボーカルの稲葉浩志ですが、 松本孝弘もリードギターを演奏し、しかも作曲を担当しており、まさに2人組と言えます。
一方、T.Rexはと言うと、
稲葉浩志が自作の曲をギターを弾きながらで歌い、松本孝弘は横でボンゴを叩いているだけ。。。
そんな姿を想像していただければ、それがT. Rexのライブです。

さて、演奏の方ですが、
ギターはマーク一人であり、バックはベースとドラムス(プラス有っても無くても変わらないボンゴ)だけですので、とても単調です。
盛り上がりも、聴かせどころもありません。
主なヒット曲は演奏してくれましたので、それはそれで良かったのですが、どの曲もマークのギターソロがとても長いのです。
レコードではこのあたりで曲が終わるなと言う箇所に来ても、マークのギターが延々と続いて、曲がなかなか終わりません。
マークは独創的な曲作りでは天才的なミュージシャンだと思いますが、ギターの演奏(特にアドリブによるソロ)だけとってみると、とても5分も10分も聴かせられる力はありません。
レコードではギターの多重録音等で素晴らしい演奏を聴かせてくれます。
しかし、実質3人の演奏では、どうがんばっても無理です。
せめて、サブのギター一人でも加わっていれば素晴らしいステージになっただろうと思います。

とは言え、
私のように、じっくり観察している観客は少数派で、大多数のファン(ほとんど女性)はノリノリでコンサートは大いに盛り上がりました。
やはり、マーク・ボーランはカッコ良かったです。

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来日と同じ時期の英国ツアーのライブをCDで聴くことができます。
演奏曲目も来日時と似ています。

ベスト・ライヴ
T.レックス
ロープライス ¥1,350
新品 ¥2,039

彼らのスタジオ録音盤は、途中でレーベルを移籍した関係もあり、最近では1枚で主なヒット曲を集めたCDは入手しにくくなっています。少し古い編集盤ですが、現在でも入手可能なのは

ベスト・オブ・T・レックス
T.レックス
ロープライス ¥1,000
新品 ----

日本でのヒット曲のひとつ、「メタル・グルー」のmidiはこちらで聴くことができます。

なお、マーク・ボーランは1977年に交通事故で他界してしまいました。
残念です。  
Posted by popandrock at 15:57TrackBack(0)来日ライブ日記

2005年04月25日

【この人がお気に入り】ポール・マッカートニーとAIKO

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ユーミン夫の松任谷正隆氏によると、邦楽で最高の曲はAIKOの「カブトムシ」だそうです。
数々のヒット曲の編曲をしてこられた氏の発言ですから重みがあります。

私は、AIKOは日本のポール・マッカートニーだと思っています。更に付け加えれば、AIKOは現代のベートーベンだと思います。なぜなら、この3人の作曲家の代表曲には、ある共通点があるからです。

まず、ポールの代表曲「イエスタデー」ですが、2小節目の印象的なメロディーをポールが思いついた時点で、ヒットが約束されたようなものだと言う説があります。
↓この部分です。


確かに、この部分以外には、特に強烈な印象を受けるメロディーはありません。逆に、そのことが2小節目のメロディーを生かし、曲全体のバランスが保っていると言えます。ポールの作曲家としての素晴らしさは、この短いフレーズを膨らませ、一つの曲に仕上げてしまったことでしょう。

なお、イエスタデーは元々は映画「4人はアイドル(=Help!)」のサントラ盤LP(ただし、映画には使われていません)に収録されていた曲で、イギリスではシングル盤は発売されませんでした。
4人はアイドル
ザ・ビートルズ
ロープライス ¥1,680
新品 ¥2,421


次に、時間をさかのぼって、ベートーベンの「運命」です。
「ジャジャジャジャーーーン」ですね。
この曲は、「イエスタデー」より更に極端で、ほぼ全曲「ジャジャジャジャーン」の繰り返しです。音程を変え、リズムに変化をもたせながら、「ジャジャジャジャーン」だけで一曲完成させてしまうベートーベンは、やはり偉大です。

では最後にAIKOの「カブトムシ」です。
この曲には同じメロディーの部分が4箇所あります。
↓このメロディーです。

他にも印象的なメロディーもありますが、はやり、この曲をまとまりのあるものにしているのは、各フレーズの締めくくりに効果的に使われるこのメロディーでしょう。

ところで、この部分を音符で表すと、なんと、「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」なのです。
まるで音階練習のような「ド・レ・ミ・・・・」を発展させてこの名曲を仕上げてしまったAIKOもやはり偉大です。

偉大な作曲家の条件の一つは、印象的なリフ(短いメロディー)を発展させ、1曲をまとめあげる力があるかどうかではないでしょうか。

19世紀を代表する作曲家・・・ベートーベン
20世紀を代表する作曲家・・・ポール・マッカートニー
21世紀を代表する作曲家・・・AIKO

となるように、今後もAIKOに期待したいと思います。

カブトムシの収録されているCDは、
桜の木の下
aiko
ロープライス ¥1,650
新品 ¥2,753


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Posted by popandrock at 00:48TrackBack(0)この人がお気に入り

2005年04月23日

【この曲がお気に入り】ラヴァーズ・コンチェルト★★★トーイズ (PART1)

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最近放送されたTVドラマ「不機嫌なジーン」で「ラヴァーズ・コンチェルト」が挿入歌として毎回流れていました。テレビで歌っているのはサラ・ヴォーンですが、これは1966年にヒットしたカバーで、オリジナルはアメリカで1965年に(日本では1966年)にヒットしたトーイズです。

メロディーはバッハ作曲と言われるメヌエットで、ピアノの練習曲として親しまれているものですが、英語の歌詞が付けられ、世界的なヒットとなりました。アメリカでは1966年に、ミセス・ミラー(95位)、サラ・ヴォーン(63位)と立て続けにカバーもヒットしましたが、もちろんオリジナルのトーイズのヒット(Billboardで3週連続2位、Cashboxでは6週連続1位)には遠くおよびませんでした。

ところが、トーイズの原盤がDyno Voiceと言うマイナーレーベルであったため、日本では発売がアメリカのヒットより半年以上遅れてカバー版の発売時期と重なり、しかも約3年で廃盤になったまま全く再発売されなかったため、トーイズは忘れ去られ、継続して発売されていたサラ・ヴォーンのヒット曲として定着しまいました。

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トーイズの「ラヴァーズ・コンチェルト」は↓このCDで聴くことができます。
今のところアメリカ盤しか出ていません。
試聴もできますので、覗いてみてください。
Sing "A Lover's Concerto" and "Attack
The Toys
ロープライス ¥1,370より

また、トーイズ版「ラヴァーズ・コンチェルト」のmidiはこちらで聴くことができます。

なお、来る5月18日に日本コロンビアより「THE TOYSゴールデン☆ベスト」と言うCDが発売されますが、これは全く別のグループですのでお間違いないように。

サラ・ヴォーンの方は原盤がメジャーレーベルですので、日本盤CDは入手容易です。
最新の編集盤はこちら↓
ラヴァーズ・コンチェルト~サラ・ヴォーン・ベスト
サラ・ヴォーン
新品 ¥2,300


トーイズの話、作詞、編曲スタッフの話は、次回パート2で・・・  
Posted by popandrock at 01:16TrackBack(0)この曲がお気に入り

2005年04月18日

【オリコン前夜】ミヤコ HIT'S & POP'S

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オリコンと言えば、現在では音楽ランキングの代名詞とも言えるほどポピュラーで権威のあるチャートを提供してくれていますが、60年代から70年代前半にかけては、まだまだ普及しておらず、さまざまなチャートが乱立していました。
当時はオリコンのような総合チャートは無く、ラジオ番組へのリクエスト・ランキングとレコード店の売上げ集計ランキングに分かれていました。

今日紹介するのは大阪の心斎橋に本店がある「ミヤコ」が自主的に集計して発表していたチャートです。8つの店舗を持つ大手とは言え、毎週チャートを発表し、しかも登録すれば毎週郵送してくれるという太っ腹ぶりでした。
チャートの一例として、今から35年前の今日、1970年4月18日付けの「ポピュラー・シングル・ベスト10」を掲載します。

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miyako1
1.ヴィーナス・・・ショッキング・ブルー
2.レットイットビー・・・ビートルズ
3.マルタ島の砂・・・ハーブ・アルパート
4.雨にぬれても・・・B.J.トーマス
5.明日にかける橋・・・サイモンとガーファンクル
6.トラベリンバンド・・・C.C.R
7.雪が降る・・・アダモ
8.グッドモーニングスターシャイン
9.インスタントカーマ・・・プラスティックオノバンド
10.雨のささやき・・・ホセフェリシアーノ
     (一部表記を省略しています)
  
Posted by popandrock at 21:38TrackBack(0)オリコン前夜