【もしゼーレがバンプオブチキンのファンだったら。】エヴァンゲリオンのゼーレという組織の野望。
エヴァンゲリオンというアニメで、ゼーレという組織が、教本(裏死海文書)に基づいて実行しようとしていた「ヒトの進化」それは、「罪深い人類を進化される方法はこの方法で!」という彼らなりの神学に基づいていたものだった。↑コレ、ゼーレのマークそして、それに乗っかりながらも、おのれの野望を満たそうとする主人公のお父さん。そして、なにがなんだかわかないけどその中心にすえられた主人公の葛藤が主なアニメだったとも言えるかもしれない。そして、アニメのオープニングには、日本人には絶対に100%なじみのない、カバラの生命の樹がすえられていた。ゼーレの人類への計画は、「出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を、完全な単体としての生物へ人工進化させる計画」みたいな感じだった。これは、神学を知的に解釈した人がおちいる、あるいは外部の人間が洞察するような考え方だった。もともと、カバラでいえば、アダムとイブ(エヴァ)は、もともと一つであり、楽園を動物の毛皮(肉体)を着て出、生命の木の階梯を降りて、地上に近づくにつれて分化したものになり男と女であるアダムとイブになる話だった。アダムとイブは、さらに霊的な世界で言えば(つまり生命の木を登っていけば)男女一体であってさらに登っていけば、光の巨人(宇宙全体を便宜的にヒトに模した例えのような)に合一し、光の巨人であるアダムカドモンが始まりというのである。これは、「ジャックと豆の木」に象徴される話であってあれは、準備の出来てない少年が、木を登っていき、巨人に出会ったが、おそろしく、木を切って二度と登らないようになる話を示唆されているらしい。これは、オカルトマニアつまりゼーレたちにとっては、かっこうの種でありそれを元にした書物の通りに計画をススメルゾ!というテーマがあったしかし、ちょっと立ち止まってみよう。そもそも、これは、何から洞察されたのだろう?ただのストーリーだったのだろうか?日本人からすれば、「あー、そういうの信じてんのね」ってなると思うこれは、実は、歴史的に、そういう経験をした人物たちがいたと仮に考えてみよう。一人二人でなく何人も。神秘を記した人たちによれば、ある日、突然、「わたし」と思っていた個人の殻が破れて、あらゆる全体に遍在していたと言うのである。つまり、「わたしたち」は、それぞれの「わたし」のことをわかっておらず、日々、生活しており、他人とは違うもので、その疎外感や、なんやかんやで悩んだりしているしかし、あらゆるものに浸透するナニカと合一というより、ナニカそれ自体であったとき「わたし」の定義が「たった一人の個人的なワタシ」からニュアンスが変わってくる。これを、それぞれのかけがえのないびっくりする経験だったと思ってみようそれは、遍在する全体的な視野だったかもしれない個人では到底とりうることのない。ここで、それを聞いた人たちが歴史の書物に残そうと思う としたとするそうすると、上のものを当てはめてみよう。あらゆるぜんたいの遍在をアダムカドモンと呼び、個人をアダム(人)と呼んでみるそのあいだを繋ぐ線とロジックを結ぶと個人は、遍在より出でし、存在でより高次の状態では、より一体性が増してくるなので、より高次の層では、アダムと、アダムの影であるイブ(神秘学の見方)は一体の霊的存在であろうとなっていき、以下秀才たちの知的仕事が並んでゆく。これをそのまま知的に理解しようとする大人たち、つまりゼーレの先祖みたいな人たちがいたとするとその構造を歴史に押しやって、人類はこう進化するから、こうならなかったらこうなって、こうだろうって書物に残したとする。それを見る、ゼーレたちは、「こ、、これや、、、進化する方法、、、絶対そうや!この通りにするんや!!」ってなるのかもしれない。でも、待ってみよう。もしかしたら、それ、誰かの体験を、聖なる体験と登場人物もあいまった結果うまれたものじゃない?はじまりをたどろうとすれば、これは、象徴的な比喩なんやないの??ってなるかもしれない。興味深いことは、カバラに精通している者が象徴を通り越えてなもなき神秘に触れえるかというとそうでもなく誰かが作り出したロジックをその通りだと押し付けている場合もあるのかもしれない。少なくとも、2パターンあるのかもしれないたしかにヒントがある場合と、それを絶対とし知的に判断した教師とがエヴァンゲリオンでは、知的に判断した教師たち、あるいは大人たちが起こそうとする4つの生命の木(神的:アツィルト、霊的:ベリアー、魂的:イエツラー、物質的:アッシャー)のインパクトによって人類を進化する方向ではなく人類はもう、新しい神話というか物語を創生していくぜ!!!っていう部分に帰着されてたかもしれない。つまり、旧約の神話とそれを信奉するゼーレではなく、新しい神話を紡ぐ人類として。でも、別の見方をすれば、だれかさいしょの経験にはたしかにヒントがあった!という見方をいったんしてみようそれをロジックで理解した書物と歴史と解釈にあやまりがあって、理解できない大人たちがいたと。たしかに、誰かがそういう経験をし、それを象徴的に書いた書物を後の人々が残した神学の徒たちは、それを学んだが、実際の経験ではなく頭に詰め込んだ学問にしたしかし、本当は、そこにヒントがあった!と私は、宗教の徒ではないが、カバラの本(海外の作者)は10冊くらいは読んだと思うその中では、本質な部分のところには大きなヒントと手掛かりと、誠実な道がある気がしている象徴的な「生命の木」に記されたものをたどれば、最初のインパクトのある経験があったと思う西洋は、縦型のロジックで考えるつまり、神を頂上に置き、体系がすえられている。もし仮に、その神秘的な体験をした東洋の重要人物をブッダとしてみよう!するとどうだろう東洋は、神を据えずにとらえる節があるのかもしれないもし、ゼーレが仏教をやっていたら、、、、どうだったのだろう?縦(西洋)と横(東洋)の十字架に神話の意味を洞察するときなにが見えてくるのだろう?そして、もしゼーレがバンプファンで、カルマを聞いて、仏教をし、死海文書に学んでいたとしたらゼーレの野望も変わっていたのかもしれないゼーレ「♪券売機で〜1番端の〜」※おまけ※ 生命の木について。数字の通りに、くだると、3回半のジグザグで、マクルート(地上)へ。モーセの杖に巻きついてた青銅の蛇は、3回転半。カバラの教えのなかでは、この生命の木が4本あり、それぞれ、物質界の象徴、魂界の象徴なんかになっているつまり、アダムは違うレイヤーに4体いる。(肉体、魂、霊、神的)自分からすると象徴の話にもおもえる。木を登っていき、神秘と合一していく話の深い部分は、実は、さまざまなところで語られてきた神秘に似てるところもあるのかもしれない。