いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

カルマ・ヨガ

2012-06-13 20:56:28 | Weblog
Jさんの興味深いコメントからヒントを得て、、、

私は行法として一番意識の改革に近づくことができるのが瞑想だと今でも思っています

以前は毎日やっていました

瞑想については以前にも書きましたけど

でも一番いいのが日常が瞑想ならいいのですよね

日常において、たくさんの音や目に見えるものに私達は意識を向けてしまうから、瞑想という方法をわざわざ用いている訳です

でも日常目に見えるものに意味や理屈をつけず、聞こえる音にも意識を向けず日常を過ごせることができたら、つまり見えているだけ、聞こえているだけ状態、これ瞑想状態に近い訳です

「そんなんいろいろ危ないしばかみたいやんやん」

それは別の話でして

基本私の大事な修行はそれです、四六時中修行です(笑)

とて意識はどこかに向けなければならないと言うか向いてしまう

それが、今ある現実に百パーセント意識と思いを向けることです、簡単ではないですよ、普段は好き勝手やって瞑想時だけ心を静かにするより全然効果的です

給金を貰う仕事も子供の世話や友人との語らいも私は同じ仕事と捉えています、つまりなにげない日常を「やらなければならないしごと」から「心から喜びとなるしご」に変えることができるかどうかが大きいのです

また、日常に自分の周りに起こる出来事でどうでもいい出来事などなにひとつなく

修行で滝に打たれるのも日常家族の洗濯をするのも心の持ち方に因ってはなんら変わりはないと思います。これが行き過ぎると「この呪文を唱えていれさえすればすべてが上手くいく」という捉え方を間違えるとカルトとなります

また、日常起こる大きな判断や決断も些細な判断も霊的にはなんの変わりもありません

カルマの解消にもなります

この行法は「カルマ・ヨガ」として多くの人が行っています(ググって見て)

それが浸透すると、それこそ言葉では表現できない心の変容が起こります

なぜ言葉にできないのか?

それは人それぞれ違うからだと思います
、自分にしか理解できないとでも言いましょうかね

いろはの「い」

進化の過程

2012-06-08 10:01:12 | Weblog
悟るとどうなるのかな?

無になればどんな素晴らしい出来事が展開するのかな?

気づいたら幸せになるのかな?

わたしは本人は、あまりなにも感じない気がする

わたしは進化とは自分の意識の変化と感じる

そんなもの突然やってこない

少しずつ少しずつ意識が広がるから

本人は実感がない

よく「わたしは昔はもっと怒りっぽかった」的な自覚を持ったりするのとまた意味(次元)が違う

また、覚者と凡人と比べることもできないし、そこに境界のようなものもない

「こうなったら覚者っす!」「これを知ったら覚者でつよ~!」

こんなものはない(笑)

当然一瞬悟りを得たとて四六時中覚者にはならない

冒険家などがどこか危険と引き換えに一瞬悟り的なことを体感するのはわかる気がするけど

それも一瞬の出来事でしかない

また日常に戻れば自我と言う重い重力に潰される

ベートーベンがそうだったようだ

曲を造る時は覚者で普段は強力な自我の塊(笑)

だからある意味進化する過程は怖い

進化した意識の同じだけの自我も持ち合わせる

初めは素晴らしい意識の進化した指導者が突然反対になるのもそのため

心の持ち方ひとつで進化した分進化していない時には見えなかった(関わらなかった)影からの誘惑が迫る

意識が進化(拡大)するとは光だけでなく影も拡大するということ

肝心なのは、つねに否定的な要素、たとえば自分の利益を考えたり高慢になったりというのは実態のない影だと無視すること

つねに光(肯定)のみに意識を向けることと想う

よからぬ影の存在はその人間の心の隙間を虎視眈々と狙っているのですからね


いろはの「い」

コメントからの「エッセンス」

2012-06-04 12:46:23 | Weblog
釈迦やイエスは当時の一般の人にわかりやすいように比喩を使ったと言われています

葡萄園のはなしなどは典型的な例です

なぜか?

説明できないからだね

例えば洞窟で生まれてから一度も外へ出たことのない人がいたとする(いないけど)

その人は光や草花や海や大地やその他全ての外への知識も見たことも、その記憶も概念もない

水もわからない人に海が説明できない

高さや幅の概念もない人に大東京のビルは説明できない

精神世界はこれと同じですね

まして

言葉の意味はどこで成立するかと言えば

それを聞いたり読んだりした人の心の中で把握され初めて成立する

「あなたを信じてています」

こんなわかりやすい意味の言葉も

その両人の立場や過去、聞いた人の過去生なんかの関係により解釈が変わってくる

だからマントラには意味のわからない言葉が多い、人が勝手な解釈で理解し、その人の心に観念を造り出すから

観念とは幻のようなもので「自分が幸せでありますように」と言う言葉の中の幸せが観念なら、それを成立させなければならない反対の不幸がいる。これは表裏一体、つまりこの言葉の意味を造り出した瞬間に
「自分は不幸でありますように」が成立するのですね

観念とはこういうもので、世の中のありとあらゆる観念は対象を持つのです

その意味では人生とは難儀なものだよね

節目節目で大きな選択を必要とするから

これを決定するのは自分の心

で、自分の心は完璧ですか?と聞かれればどうか

結構、適当であったりする

「皆がそうだから」「流行りですから」「楽だから」等など

突き詰めれば

「自分の思い通り」になりたい

人を攻撃したり人へ不満を言うのも「自分の思い通りにならない」こと

全てを受け入れるとは、文字通り、右も左も上も下も、その全て受け入れる普遍な心ではないだろうかと想うのです


いろはの「い」

コメントからの「エッセンス」

2012-06-01 11:07:41 | Weblog
私はもっと進化しなきゃいけない、、

私はあの人より学びが遅れている、、、

この人は間違いない、、他は偽物だ

いろんな意味で私達は前へ進もうとする

じゃあ、前ってどっち?

転んで学ぶこと、騙されて進化することは、たくさんある

と解釈すると

全ての人は前へ進んでる

それが近道なのか、遠回りなのかは人がひとつの魂として自ら選んだ道

この世界にも、小学校から大学まであるように

今自分の周りに起こる現象は今の自分の位置を示す、

大切なのは、、

誰かと比べたり、自分の知識を確信や高慢にしないこと

それは自我のはたらきだから

もし、自分の位置を確かめたいなら

たった今の現象を確かめること

草花や周りの景色が生き生きとしていたり、周りの人が優しかったり、いつも穏やかに過ごせているのは

自分がそうだから

神道で神殿に鏡があるのは自分を映し、カガミのガ(我)を取れということ、それで神

その意味で、宗教団体とはつねに他を意識してしまう

少なくとも

やたら他を意識させ他を邪道とか時には敵や魔と教えるところは

一時も早く外れたほうがいい

魔や敵は外にはなく、それをあると考える心が造り出すものだから



いろはの「い」

より深い理解

2012-05-26 21:12:45 | Weblog
真理を理論的に考えるから混乱するんですね

真理は目の前にある

それが見えていないだけ

真理を正しい考え的な意味で捉えると混乱しますね

考えとか理論とか概念なんかは自然界にあるいろんな現象を、私達人間が理解するための手段です

それがどんなに真実味があっても心の中の映像で

自然界そのものでないんですよ

人間の理解で真理を具体的に定義などできませんね

つまり真理とは本当目の前の自然界(実相)であってそれがそのまま神と同義の位置になります

説明は難しいですがね(笑)

まあ、真理って普遍なものなのに、具体的に説いた時点で普遍が定義された制約になり

制約になれば当然他はダメになりますよね

「あの団体の教え(神も)すばらしい本物ですけどうちの神も本物です」なーんてこと聞かないですよね

普遍とは当然無限でもありますから、無限なるものを自分達の未熟な意識レベルへ引きずり下ろす行為ですね

有限という枠をこしらえるわけですからね

ここ大事と想うんですね

「この考えが真理だ!」という固定された観念を心の中に造りあげると、その人はありとあらゆることをこの観念という枠組みを通して物事を判断します

それに阻まれて真理の展開が進まず

「より深い理解」に進むんですね



いろはの「い」

プラゼボ

2012-05-23 21:41:59 | Weblog
「痛いの痛いの、飛んでいけ~」

子供って母親のこの一言で痛いのが飛んでいくんですね

これプラゼボ、つまり偽薬ですね

御利益なんてこんなようなもん

自分の信じる教祖様の言う儀式を信じて続けると人生が好転すると、素直に信じていれば好転する、「信じる者は救われる」です(笑)

一時ですがね(笑)

これはそう想うことにより心が安心し心が安定する

心が安定すれば、当然自分の周りも安定する

でも、、、偽薬ですから

いつかは不安や不満や怒りなど不安定な心に戻り「自分は不幸だ~」てなっちゃう

だから、これをしたからよくなったは、確かにあることなの、、ですね


いろはの「い」

心と観念

2012-05-11 22:05:57 | Weblog
わたしのこのブログも然りですが(笑)

本物であれ偽者であれ、どんな教えでもそれを人に伝えるために言葉や文章にして、それを読んだり聞いた人の思考で把握された時点でひとつの制約された観念となります

普遍である意識とは、文字通りどのようなものににも対応できるような意識のことなのです、つまり自由自在の意識です

宗教団体には派閥や個人的な対立は付き物です、仏教やキリスト教を筆頭に(笑)

これは当然その信者が悟りの意識状態を体験したことがないために、他人から聞いた神や仏や真理の解釈を本物の真理と錯覚して自分の考えとは違うものを排除するためです

この排除が、もう盲信状態です

この罠に嵌ってしまうと、外の世界のありとあらゆるものの中から、自分の信じているものと合致したり合致する人は認め、自分の信仰(盲信)を強化しようとし

逆に反対するもの全てを無視したり、過激な人はそのすべてを悪と決め付けます。これは自分の信仰を守ろうとしているだけで、なんの中身もありません

こんな迷った状態で自分がどんな状態や経緯でこの教えを信仰したとか、自我がいかにして偽者である観念を造りだして、それを真実であると見せかけているのかを見抜くなど不可能です

わたしはこれはただただ自分の信仰を守り、本当のことを知ることの不安を退けるだけで、そのために他の意見や見解をもつ人と争うようになっているだけです

特に過激な教えは敵や悪を説きます

これはこのような人間の自我などの心理を見抜いた巧妙な背後の仕業ではないでしょうかね(笑)
過激な国が仮想敵国をつくるようなものですね



「あなた達が真理について言い争うことはあり得ない、あなた達が議論しているのは、偽者に関することだけである。あなた達は自分がたった今生きていると言う事実については争わない、ただ自分の信仰や様々な観念について論争するだけである」

イエス




いろはの「い」

純粋無垢

2012-05-06 11:30:32 | Weblog
「無垢」そうですね

ここに全てがあるのです

よく、汚れた魂とか魂に垢がつくとか「好きなこと」言っていますが(笑)

そのようなことは絶対ありません

この世でどんな行動をとる人でも魂のレベルでは全ての人の魂はみんな純粋無垢な輝きをはなっています、魂自体にレベルなどありません。

そして外側の世界も無垢なのですが、その視野にフィルターをかけているだけです

そのフィルターは固定観念や概念、常識やこの世界での道徳です

純粋無垢な世界を観るのは純粋無垢な魂です


いろはの「い」

全てが在る

2012-05-01 12:32:30 | Weblog
あくまでも私の感覚を簡単に書けば、、、

受動と能動

元々時間も距離もない世界にそれを心に創りあげる

時間という固定観念があるためそこにゆらぎのような心の変化を生じさせる

ただひとつの生命の生命は愛であり慈悲であるのですが

それに意味を持たす、影が生じる

ただひとつのエネルギーを向こうから見れば愛と感じ、こちらから見れば憎しみを感じさせて、そこで始めて愛の意味ができる

太陽の光は普通透明に見えるけど、特殊な機械を透せば多様多彩な本来の色が入り混じっている

これらの色が現象世界の観念、つまり幸せと不幸せや裏と表と置き換えると

この現象世界には全てが存在し、それがたとえば全て見え、そして愛や光が現実味と感じ、憎しみや影、つまり否定的なものが絵に書いたもちのように、ただそこにある状態だど体感できたとする

そうなればそれが多様な色が入り混じって透明の光になる現象と同じく

全てが在ると感じる意識状態が「無」となる

「無」や「空」は、なにもないでなく

「全てが在る」状態である

と感じる



いろはの「い」



国産み

2012-04-28 20:55:57 | Weblog
始まりがあるから終わりがある

終わりがなければ始まりもない

つまり、時間の経過

スタートがあればゴールがある、これ距離

幸せと不幸せ、上と下、勝つ負ける

この地上の全ては対極となっている

私はこれを神が創りあげたと感じる

それも人の外側ではなく心の内側にだ

日本神道の中に国を産むためイザナミノミコトが、天御柱を廻るのですが

始め男神が右に廻り女神が左に廻り流産してしまい、逆にして成功した話があります

ちなみに男神は、天、火、エネルギー、太陽、能動で、女神が大地、海、水、物質、月、受動です

私は世界は元々唯ひとつの生命しかなかった、つまりこれがイエスの愛、釈迦の慈悲

それを物質の世界を産むために光と影、善悪、上と下、過去と未来、暑い寒いを人の心の内側に創りあげたと感じます

考えてみると善と悪でひとつで、その判断はそれぞれの人の心が決定する

憎悪は愛と正反対のように感じるけど、本来は絶対愛としての共通のエネルギーがあるだけで

その愛の最も未熟な表現が憎しみとなるのです

ただこれらは幻でなく

本来は光(愛)しかないのですが影(憎しみ、否定的な要素)とは実在しなく、その光の反射、反響である

つまり光に因って生じる影のようなものです

それらが見えなくなれば「無」つまり悟るのでなく、それら全てが一望されたときに「無」となるのだと核心します

雑念を捨てるのでなく、眺める

これ、結構面白いですよ


いろはの「い」