スピリチュアルなサイトを見ているとよく見かけるのが、自分はいないという考えだ。あるいはいまここにいる自分は自分の本性ではなく、ここにある現実も自分も嘘偽りであり本当の自分ではないという考えと言えばいいだろうか。

私は昔からこれが嫌いだった。今も嫌いだ。

この手の考えを伝える人がよく言うのは、幸せな時間、物凄く満たされた時間では自分という感覚が消える。自分も他者もなく、ただ世界がある。そこに愛が満たされているという表現をする人もいる。それが至福なんだそうだ。気がつくと時間が過ぎているような、満たされすぎて自分が脱落している状態と言えばいいだろうか。肩の力が抜けきっているような超リラックス状態。

普通の人でもこうしたリラックス状態になることはそこそこあるんだけど、スピリチュアルな人が言うリラックス状態はもっと深いもので一度体験すると永遠にそれを追い求めるような至福の状態であると言ってもいい。悟りと言う人もいる。ワンネスという人もいたっけ。全体と自分が一つになっているとか、自分が無くただ世界のみがあるなんて表現をする人もいる。まあ、表現は人さまざま。

で、この状態というのは普段ストレスを抱えて生きてる現代人にとってはかなり魅力があるもので、一度味わうとずっとそれを追い求めるようになる。そして禅とか瞑想を始めたりする。

まあこの手のことについては色んなサイトで言われてるので、それを読んでくれるといいかと。


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そして本題なんだけど、私はこの手の自分がいないという考えが嫌い。

大体それを認識している以上、お前はそこにいるだろうと思う。

勝手に体が動いてたんだーとかいう人もいるけど、いやいやそれを語っている時点で自分がいることを証明してるじゃん、その記憶は後から植え付けられたものなのかとか思っちゃう。

実際自分がいないと言いたくなるのはわかる。こうした超リラックスしてる状態の人に話しかけたりすると、そのリラックス感は解けてその人は我に返る=通常の状態に戻ってくる。そしてそれまでの状態を夢のように感じる。それが深まった人はそちら側を真の現実といい、普通の日常を嘘とか夢幻というわけだが。

でもね、たとえ自分がそれを味わっていることを認識できなかった、自覚できなかったとしたってそれが自分がいないということには結びつかないんだよ。

普通の生活だってそうだ。呼吸も普段自覚せずにやっている。体がかゆいときに気づかぬ間に掻いちゃったりする。でも自分がいないとか言わないだろう。それは別のことに集中していたり、逆に意識が眠ったような状態になっていて目の前の現実を捉えられなかっただけだ。自分がいないとは言わない。だいたい本当に自分がいないのならすでに死んでいるし、それを体験したことも自覚できない。

本当に自分がいない状態を体験したのなら、それを体験したことを自覚することもできないわけで当然それを後から語ることもできない。だから、自分はそこにいたと言うべきだと言えばいいだろうか。

まあ、普通の人はそういうふうに考えると思う。自分が本当にいないとか自我なんて嘘だったんだとか思わない。スピリチュアルな悟り状態なんかはそこに強烈な至福感が発生するのでどうしてもその感覚に囚われて、自分はない、世界の正体は愛なんだ!とか言い出す人がいるんだけど。冷静になれよと。こうした反応は普通の日常の精神状態が苦しかったりつまらな過ぎるから生まれるものでもあるけどね。

自己がない系の話を聞いてイライラするのは、彼らが普通の精神状態、自我を低いものだと言ってくることだ。直接そう言ってなくても間接的にそう言ってる。世界は夢だとか言ってるし。そもそも現実と夢の区別などはっきりとしていない。この世界が夢だと言うのなら、その悟った状態こそが夢ではないのだと証明できるのかと言いたい。まあ、そう言ったらこうした真理は言葉では語れず、ただ体験して理解するしかないのだとか言ってくるんだが、彼らは。やれやれ。

別に神秘的な世界とか霊的な世界、すべてが一つであるかのような体験が無いのだとは言っていない。むしろあると感じている。しかし、そのことと自分は本当はいないなどという考えは結びつけてはいけない。端的に間違っているからだ。

結局この手の人達って現実的な自分から離れたがっているのだと思う。それはけっこう共感できる。現実って苦しいこと多いし、つまらないし、肉体は老いていって病気にもなる。はっきり言って地獄だ。だから、そこから逃れるために自己を錯覚だと考えたいのもわかる。(彼らは単純に自分なんてないんだと誤解してるだけのようにも見えるが。)

そうした面では、本当は自分なんて存在しないんだという考えは救いをもたらすものなんだろう。そこは価値はあると思う。

ただ現実的な意味ではこの考えも体験もほとんど役に立たないよ。こうしたリラックスし過ぎた状態でできることなんて限られすぎてる。車の運転はできないだろうし、人と話すことも難しいだろう。安全な自室で掃除する時くらいじゃないか?禅とかの修行が役に立つの。料理は難しいと思う。包丁使ってるときに集中しすぎると指切りそうだし、料理って色んなことを同時にやらないといけないから集中力を分散させることになる。それは自己の不在からは程遠いだろう。慣れない仕事をやる時も無理だね。

結局、自分を切り離そうとする作業って瞑想とかマインドフルネス的な行為でしか全く意味を成さないと思う。日常的な生活では役に立たない。

まあリラックスはするだろうから、日常的な生活にある程度取り入れてみるといいのかも。休憩にはなるかも。でもやりすぎるとまずい。たまにそうした超リラックスしてる状態をずっと維持できる人がいるが、そうした人は完全スピリチュアルな人になってしまう。やばい人だ。現実の社会には適応できない。まあ、何でもほどほどがいいね。


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なんか脱線してしまうけど、一番イヤなのはやっぱり至福感に満たされた特殊な体験をしたからと言って、単純にそれを自分はいないんだとか、世界は夢なんだとか言い出す人が多いことなんだろうな。大雑把すぎるだろ、その考え方。もっとちゃんと考えろ。そう言ったら思考を手放さねば真理には気づけないとか言い出すんだろうが。

己の体感を伝えるならその表現は丁寧にしたほうがいい。もし仮に自分はいなかったとしても他の人はそうだとは限らないだろう。自分においてはそうだったと言うべきだ。もっと言えば自分はそう言いたくなるような体験を味わったと。

あとはこの世の生活を軽視することかな。それが嫌だ。もっと尊重していいと思う。確かにくだらないことは多いし、自分がいないなんて体験も同じくらい価値がない。日常的な生活を疎かにすると、そうした至福感に満ちた瞬間を味わう余裕も無くなってしまうのだから、もう少し日常的な作業認めてやってもいいんじゃないか?食べるのも困ってるような状態で悟りも何もないだろう。いや、死んでもいいと心の底から思えるようになることこそが救いなのだと言いたいのかもしれないが、それに本気で共感できるのは一部の人間だけだし、仮に共感できるのだとしても日常的な人間の感情・思考に価値が無くなるなんてことはない。価値があると感じるものは価値があっていいし、真実でないなんて思う必要はない。

だから、自分は絶対存在して世界は存在するのだと思う人はそう思っていればいいと思うよ。それは正しいのだから。