仏  話

速成寺法話集
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夏の暑い日

盆参りのとき、檀家のNさんはいった
昭和20年8月15日、Nさんは13歳だった。


暑い夏は「終戦記念日」を思い出す

父が海軍だった

広島の呉の軍港が空襲に遭い、黒い雨がふった。

それから8月6日、真っ青な閃光をみて気を失う

目が覚めたら耳が聞こえなかったので

友人とつつき合って笑っていたらしい。

何が起きたか、知ったのは随分跡の事だそうだ

真っ白なキノコ雲がもくもくと

雲の中から雲が生まれてくるような景色だったという

Nさんは多くを語らなかった

8月15日、学校に集まれといわれたので

「沖縄行きかな?」

というて話していたらしい

学徒動員で、この頃「沖縄行き」という言葉が

流行っていたのだそうだ。


感度の悪いラジオから流れる言葉

意味は解らなかったが「戦争が終わった」

と先生から告げられた。

実感は無かったけど

空襲警報がない久しぶりの日だった

今日のように暑い夏の日

全ての価値観がひっくり返った日
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四苦八苦

人生が苦である」ということは

仏陀の人生観の根本です

逃れられない8つの苦しみ

これを四苦八苦ともうします

まず「四苦」とは

生、老、病、死
のことです
(しょうろうびょうし)

生れの苦しみ

老いの苦しみ

病の苦しみ

死の苦しみ


そして


「愛別離苦」(あいべつりく)

愛する人とのお別れ


「怨憎会苦」(おんぞうえく)

嫌な人と一緒に仕事をし
 
暮らさなければならない


「求不得苦」(ぐふとっく)

想うようにならない


「五陰盛苦」(ごおんじょうく)

心と身の活動が盛んで

そわそわ落ち着かない



前半の身体的な四苦に

これらの精神的な苦しみの

四苦を加えて

「四苦八苦」と言います。

この苦しみは、

人のさだめであり


逃れようがありません


積めば尽き、作れば破れ、

会えば別れ、生まれれば死ぬ


これらは、必然の姿であり

災いではありません


そして、人に乗り越えられない

苦しみは起きません


しかしながら、

この人生が苦であるからこそ

そこに知恵や慈悲の花も咲く

苦しみの泥があればこそ


そこから、喜びの花が咲く


というのが、
法華経で説かれる

仏陀のメッセージです

法華経は、泥の中に咲く

蓮の花の教えです


特別な修行などしなくても

生きてるだけで十分修業です


仏陀の説くように

この苦しみが

どうにもならんのであれば

さて、しっかり生きて

大輪の花、咲かせましょう



合掌
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彼岸会

春と秋、年に二回
 
昼の長さと、夜の長さが等しくなる日



その日を「お彼岸(オヒガン)」

といいます。


「日に願う」から彼岸(ヒガン)だとか、

いう説もあるそうですが、


そもそも「彼岸」という言葉は


迷いのこの世(此岸)に対して

迷いのない、悟りの向こう岸(彼岸)


という意味でございまして

彼岸の中日の前後三日間を、


「彼岸会(ひがんえ)」
と呼び

私たちが菩薩の備える

6つの知恵
を実践し、

苦しみの多い世界(此岸)から

悟りの向こう岸(彼岸)に渡ろう

という日なのです。


この彼岸会の6種の修行を


「六波羅蜜(ロクハラミツ)」

※六波羅蜜の波羅蜜(ハラミツ)とは、
インドの古語「パラミータ」の音訳で、
「智慧」を意味します。
般若心境のなかにある「般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)」
の「波羅蜜多(はらみた)」と同意です。

といいます。

一、布  施  
 (与えて施すこと)

二、持  戒

 (戒律を守ること)

三、忍  辱

 (耐え忍ぶこと)

四、精  進 
 
 (正しい努力すること)

五、禅  定

 (乱れる心を眺め、落ち着くこと)

六、智  慧

  (智に通じすべてを成就する)

「今日彼岸、菩提の種をまく日かな」

このお彼岸の日に、仏の智慧を実践し

明日に咲く、ヨロコビの種を


福田にまきたいものです。


合 掌
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盂蘭盆会

地獄の釜の蓋が開くという「お盆」

正式名称「盂蘭盆会(うらぼんえ)」

これを略して「お盆」と呼んでいます。

「ウランバナ」という

いつの時代の、何語かも解らない

という、古代語の音訳、

この音の当て字が「盂蘭盆(うらぼん)」

なのだそうです。

諸説様々ですが、ともあれアジア全域で

この「お盆」供養が行われています。


真夏の満月の夜

あの世とこの世の扉が開く

地獄の釜の蓋が開く


地域や宗旨によって、

お祭りの形はさまざまですが

一族が集まり

亡くなった身内や先祖の魂を迎えて

御馳走を備え、火を焚き、水に流す
       (経木にも、水向菩提と書きます)

灯籠流し等は、東南アジア等でも

多く見られる風景です。


驚く事に、中近東辺りにも
「ウラバン」

という、日本のお盆に酷似した

お祭りがあるそうです。


どうやら国境を越えて、もう何千年と

皆様ご存知の「お盆」という

供養がなされてきたということでしょう。


地獄の釜のフタが開いているからなのか

全く持って、この暑さ。。。

汗だくになって、一日中経を誦みあけ

団扇太鼓を一日中叩く。
 
魂の中には どうしようもなく

救いようのないものもあって

恨み、妬み、嫉みに、

欲しい、欲しい、欲しいと ー

声なき声が、頭の中で

リフレインするのです。


実際に、それらの魂の救済をするのは

大変なことです。

しかし、このお盆の時期だけは

どのような無念の魂にも

供養の祈りが、届くのだそうです。

だから、お盆には「施餓鬼供養」
(餓えた鬼に施す、文字のままの意味ですね)

をするのです。


お盆のお参りときには、

いつも涼しい風が吹いて

汗だくのハゲ頭を、

心地よく、なでて往きます。


ちなみにお盆のときには

このような回向の言葉をよみます。

如以甘露灑 除熱得清涼

離苦得楽 妙法経力即身成仏

大意〜
甘露をそそぐように、
その熱を除き清らかな涼しさを得る
苦しみを離れ、楽を得る
法華経の功力をもって、すべてが仏となる



このお盆に、生きとし生けるもの

亡者にも、死者にも、全ての無念の魂に

甘露の雨が降り注ぎますように

南無妙法蓮華経
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十王経〜死んでから49日(満中陰)までの話

手元に、古い珍本があります。

十王教という死後の旅路の物語。

いわゆる三途の川や

閻魔大王が出てくるお話です。

この世とあの世の境目を中陰といいます。

人間は、死後49日

もしくは満中陰までの間

この中陰を旅することになります。

中有(中陰)の道中には、

言葉にすることさえ恐ろしい

怒りの姿を顕した、十名の王がおります。


薄暗い中有(中陰)の道中で

死者を導くために恐ろしい怒りの姿を

もってあらわるのです。

そして、死者が生前に行った善悪や

罪の報いの重さをはかり

次の生まれる場所をお定めになります。

仏の救いは様々で、

なにが勝れ、なにが劣っている、

というわけではありませんが 、

この十王の教えは、ことに神妙です。

死後、これほどまでに自分の罪が

問い正され、明らかにされ

これほどまでに容赦なく

責め立てられるのであれば

どのような人でも、おのれの罪業を恐れ、

因果の恐ろしさを知ることとなるでしょう。

そして、このような恐れ敬う気持ちが

あればこそ、はじめて流転生死からの

解脱の方法が見えてくるのです。



其の一 はじめに

其の二 死後の最初の一週間の事 
初七日 死出の山にたどり着くまで
 

其の三 死後の次の二週間目の事 
2七日 三途川の事〜その1
 

其の四 死後の次の二週間目の事
2七日 三途川の事〜その2
 

其の五 死後の次の三週間目の事
3七日 業関の苦役の事
 

其の六 死後の次の四週間目の事
4七日 業河での大苦悩


其の七 死後の次の五週間目の事
5七日 閻魔大王と浄玻璃鏡、三十五日


其の八 死後の次の六週間目の事
6七日 弥勒の三叉路


其の九 死後の最後の七週間目の事
7七日 中陰の満ちるとき、満中陰




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不殺生

生き物は、生きる為なら

どんな事でもする。



空襲のあとの死体を

片付ける仕事を得た子供が

炎天下、死体の山に腰掛けて

旨そうにモリモリと弁当を食っている。

これは、63年前の淀川ベリのお話。


戦国時代、農村の次男坊は

一日、二つのおにぎりを

得るために、命をかけた。


殺 す な


とブッダはいう。

ブッダは、いつも

薄氷の上を歩くかのように歩いたという


ブッダは、わが身の安全の為に

慎重に、歩いたのではない


必死に生きる

生きとし生ける物たち

その何者をも傷つけないように

慎重に歩いた。


仏教徒は不殺生戒を保つ。


どんなにやられても

決してやり返しはしない

決して命を損なわない


やられっぱなしで、損だ


と思うかもしれないけれど

それが、仏教のいいところ。


そんな私は仏教徒

明日バルサン焚くけれど。。。


合 掌
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山法師の説法

自分を見失った人間は、

外見ばかりとりつくろって

他人に振り回されて、

かき回されて、ヘトヘトになり

ひきずられて思うようにならない。


この世界は失われていく。

死は突然やってきて、

こちらの都合なんておかまいなし。

つかまれば一瞬だ。


こんな話をするのに

特別な意味はない。

ただ、自分で自分を縛り上げて

苦しんでいるあなたを

世間のごまかしに

だまされないようにするだけのことだ。


ぐずぐずしていてはいけない。

やりたいことは

今すぐやりなさい。

この説法を聞いている あなたが、

正直な考えを起こして

どこまでも当たり前であれば、

足の踏み場は確実だ。


この世界に棲む、

ある種の化け物に

だまされてはいけない。

世俗のことに救いはない。

よくよく見極めて、

当たり前であればいい。


今だにあれこれいって、

何かにすがっているようでは

見失うばかりで、救いようもない。


勝負の心もないのに

「自分は正しい」

なんていっているのは

逆立ちをしているようなものだ。


本物の金かどうかは、

火にかければ一発で解る。

最後は、つくかそるかしかない。

ケリがついてしまえば、

地獄行きの大罪も

むこうから解放の海になる。


まあ突き抜けることも

出来ないでいる人間に、

グダグダ言ってもかなわん。

実際、自分自身でするしかない。

つとめられよ、ごきげんよう。
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老祖の説法

合掌

諸行無常と、すべてのものは

移り変わっていく世の中ですから、

何ごとが起こっても

不思議ではありませんが、

最近、天災、人災を含めて

あまりにもできごとが

多すぎるようです。



仏教の理法からいえば、

いろいろとできごとが

あるということは、

それぞれに、それなりの

原因があるからです。



ですから結果が でてから

対策を講ずるのでは、

あとの祭りで、

できれば、未然に対策が

こうじられるならば、

何よりであります。

したがって、

すべての面でいえることは、

平常より前向きな考え方で

行動を起こすことが

たいせつであります。



宗教のめざすものは、

人々の幸せであります。

いろいろなできごとが、

次々に生じてくると、

たいていの人は、

精神的に参ってしまい、

生きる楽しみを

なくしてしまいがちです。



苦しいときの「神頼み式」

ではだめです。

そのようなご都合主義的宗教など

あるはずありません。

しかし、一般の人々の

宗教に対する認識は

不十分であります。



仏教についていえば、

葬式や法事をすることが

仏教かのように

誤解されています。



仏教は、教えのある宗教で、

その教えに基づいて

実践生活をすることが

大切なのであります。



つまり、

楽しく生きることであります。

では、どうすれば

人生を楽しく生きることが

できるのでしょうか。



人間には、生きていく上で、

大なり小なりのいろいろな

悩み迷いがあります。

たとえば、心の悩みをはじめ、

病気のこと、将来のこと、

生活のこと、仕事のこと、

人間関係の悩みなどがあるものです。

したがって、それらを解決するために、

てだてを考えなくてはなりません。

このことを常に考えて

努力しているかどうかが、

常に大切なことであります。



仏教は「迷いを転じて悟りを開く」

ものであると、しばし申しました。



迷い、つまり悩みがあるうちは、

悟りは開けません。

まず、この悩み迷いを

解消することです。

手近なことより、

またできることより、

そして考え方を改めることによって、

案外に早く

迷いを転ずることができるものです。



かくて心は安らかとなり、

人生を楽しく生きることになるのでは

ないのでしょうか。

これが宗教のこころといえましょう。





上記、彼岸に遷化された、

老和尚の説法でした。



老師御報恩謝徳

                           
再拝
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災いの人

「災い人」という話を、

和尚から学んだことがある。

災い人というのは、

「ああしなさい、こうしなさい

 君のためだ」

とかいって

説教する人のこと。


本当のところが解れば、

自然に人は道徳的になる。

無理に良いことをしようと、

出来もしないことを我慢して行うと

かならず、抑えた自分の心の

反撃をうける。

真面目な人ほど

変態が多いのはそのためだ。


ありがたい教えなんてなくても、

人は生きていける。

でも、他人の支えなしに

人は生きていけない。


当たり前のことなのだけれども

日頃の生活に追われていると、

愚痴や怒りや怠けたい気持ちで

いっぱいになって、

こんな当たり前のことを忘れてしまう。


宗教は、この当たり前の事を

学ぶためにある。


立場の違いや様々な環境があるから、

文化として

いろいろな宗教があるけれども、

その本質は、

人を暖かい優しさに

導くためではなかろうか。


言葉で言うのは簡単だけれども、

なかなか人は優しくなれない。

人はそんなに強くないからなのだろう。

弱い人ほど他人に攻撃的になる。


法華経の方便品第2に

「子供が遊びで、砂の塔を建て

 仏に手を合わせたなら
 
 この子供はすでに

 仏の教えを完成している。」


という内容の一文があるのは、

理屈ぬきで手を合わせることの大切さを

教えているものなのだろう。

何でもいい、

手をあわせられる何かを

持つ人は強い。


それに合掌して人は殴れない。


仏教の説く仏とは、

目に見えない大慈悲そのものだから

悟ることはあっても

悟る何かがあるワケではない。

「手放しになろう」と

和尚はいつも笑う。

合笑
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実践の道

人間の生きることは、

詰じつめれば

何かを求める事に

ほかならないが

これには、善い求めと

悪い求めがある


悪い求めとは、

自分が生まれるもので

ありながら

他の生まれるものを求め、

病む身体、死に行く身体、

憂いに沈み、

汚れに染まるものであるのに、

自分と同じものを

求めることである


生まれるものとは何か、

妻子、従者、家畜、金銀などである。

世の人々は、

自分が滅びいくものでありながら

それら滅びいくものを求めて、

執着し迷っている


善い求めとは何であるか

自分が生まれるものであって、

生まれるものの災いを見

生まれない法である、

安穏の涅槃をもとめ

自分が老いいくもの、

病むもの、死ぬもの、

憂いに沈み、

汚れに染まるものでありながら、

それらの災いを見て、

この上ない、安穏の涅槃を

もとめることである


人は、この世の生と死の

根本的な性質を

心に留めなければならない

世界は、

それ自体の実体を持っていない

外に迷いがあるのではなく

内の心に迷いを生ずるのである

欲の炎に焼かれて、

苦しみ悩みもがき

無知なるが故に、

迷いの闇に包まれて、憂い悲しむ

迷いの家を造るのはこの心

道を求める人は、

この心と戦って

進んでいかなければならない

「私の心よ、おまえはどうして

 無益な苦しみのもとを求めて

 少しの落ち着きも無く、

 そわそわとして静かでないのか。

 どうして私を迷わせて、

 いたずらにものを集めさせるのか

 私は仏の教えを聞く身となった。

 どうか私が

 さまざまな苦しみから離れて、

 速やかに悟りを得られるよう

 努めてくれ。

 これまで私はおまえの

 思う通りに動いてきた

 しかし、これからおまえは

 私の思う通りに

 動かねばならない。

 我らはともに、仏の教えに従おう。

 心よ、山も河も海も、

 すべてみな移り変わり

 災いに満ちている。

 この世のどこに楽しみを

 求める事が出来ようか。

 教えに従って、

 速やかに悟りの岸に

 渡ろうではないか。」

このように心と戦って、

まことに道を求める人は

強い覚悟をもって進むから

嘲り誹る人と出会っても

心を動かす事が無い

ノコギリによって

頭と胴を切り離されても

心乱れてはならない

それによって

かえって仏の教えが

心に満たされるであろうと

かたく覚悟しているのである。
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