其処(そこ)に問題があったのです。
其れですから解決の手段・方法は見いだせなかったのです。
其れをおシャカ様が人類史上初めて解明されたのです。
本来一つの物であるのに其れを自分勝手にしたものですから、本来の自分が分からないままで自信(自覚)が無いまま不安が生じてしまうのです。
其の不安をはっきり離れてしまえば「救われたということがきちんと分かる」のです。
それを仏教では「安心(あんじん)が得られた」というのです。
其処(そこ)に問題があったのです。
其れですから解決の手段・方法は見いだせなかったのです。
其れをおシャカ様が人類史上初めて解明されたのです。
本来一つの物であるのに其れを自分勝手にしたものですから、本来の自分が分からないままで自信(自覚)が無いまま不安が生じてしまうのです。
其の不安をはっきり離れてしまえば「救われたということがきちんと分かる」のです。
それを仏教では「安心(あんじん)が得られた」というのです。
「衆生」というものも今のように分からないものが分からないなりに生まれて来たというのが凡(すべ)てなのです。
其れで其れが大きく成ったのです。
ですから内容としては、「仏」と同じものなのです。
内容としては同じものなのですが、「物心が付いたという時点」で「此の物を自分勝手にした」のです。
物心が付いて始まった其れも子供時代の事ですから、其の「物心が付いた時点」では「其のこと(自分勝手にした事)」を全く知(識)らなかった」のです。
即ち「其の事(自分勝手にした事)の自覚」は無かったのです。
「心」といわれるものは、私たち衆生が何もその発生を知(識)らないまま、分からない不思議な作用を起こします。
それが「心」の「事実(真実)」なのです。
其れは其のはずです。
私たち衆生はこの世に知らず識らずに生まれて来たのです。(不知不識生)
知(識)らないなりに、「此の物は今存在している」のです。
ですから、「心」とは架空のものではありません。
そういう働きをするものを暫く「心」と名付けたのです。
それを確実に「自覚」なさったお方が「仏(おシャカ様)」といわれる由縁です。
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。
”衆生本来仏なり”
私たち衆生は本来「仏その物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。
ですからもっと大きく「活かして生きなさい」といってるのです。
おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ないという事です。
※人間(じんかん)とは広辞苑に拠れば「人の住む所・世の中・世間」と記されています
衆生とは仏教語で、広辞苑に拠れば
しゅじょう(衆生)【仏】いのちあるもの・生きとし生けるもの・一切の生物、 一切の人類や動物、六道を輪廻する存在・有情(うじょう)と記されています
私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれてきたものではありません。
ですから私たちは「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが「此の物」は「衆生」なのです。
つまり、私たちは「全ての物と同じ」なのです。
「人類(人)」と認めようがないものです。
始終変化している訳ですから「実体が無い・実相は無相」ということです。
「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。
過去を顧みて現在の誡めとするのはよい事です。
しかし何時までも取り返しのつかない過去に引っ掛かっていては愚の骨頂です。
また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。
古歌に、「過去を思い 未来をここに引き寄せて 今現在を常闇(とこやみ)にする」とあります。
今日あっても過去です。今日あっても未来です。
否、過去も未来も「今日(即今)と成って現成(げんじょう)している」のです。
「今日なくして一生なし」。
今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。
「地限り 場限り」と白隠禅師は何時もいわれました。
「その場その場を空しくするな」という意味です。
人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。
老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。
これは全く間違いだと思います。
「人の一生」は今日の積もったものです。
「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。
例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。
「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。
今なくして一生はありません。
過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。
ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。
何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。
これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。
ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。
修行しなければ出来ません。
歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。
「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。
「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。
「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。
それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。
「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。
「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。
それが「道(法)」というものです。
私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。
それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。
「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。
「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。
ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。
「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。