活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「今」ということ1

2024年03月17日 | 法理

私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。

 

すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。

 

「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。

 

「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。

 

此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。

 

説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。

 

本当に「何もない状態」が「今」なのです。


「真の成功」とは

2024年03月15日 | 法理

人は必ず死ななければなりません。

 

如何なる「成功」も「死」には張り合うことは出来ません。

 

如何なる財産を持っていても「死」に臨んで一時間の生命を買うことは出来ません。

 

此処に「法(道)を求める」必要が何方にもあるのではないでしょうか。

 

「真の成功」は「永久」でなければなりません。

 

「時と所と位(くらい)」に因って変化すべきものではないのです。

 

何人もその分量が同じでなければなりません。

 

「禅」はそれを発見して「真の成功」に満足を与える無上の妙術です。


「空」とは6

2024年03月13日 | その他

「境遇は結果」です。

 

「結果」はどうすることも出来ないものです。

 

「結果は即ち、真理」です。

 

この事を仏教では「因縁生空」といっています。

 

私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。

 

貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。

 

即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。

 

「私たち衆生は全く一つの物」です。

 

「空」とは「一つの物」ということです。

 

離れることはどうしても出来ないのです。

 


「空」とは5

2024年03月11日 | 法理

「因縁生」というお言葉があります。

 

全ての物が集まって「一つの物」を形作っているのです。

 

様々な現象が世界には有(在)る訳ですが、みんなそれは「自分の分かれた物だ」ということです。

 

「元を質(ただ)せば、本当に一つの物」です。

 

それぞれの物がそれぞれの立場にきちんと他の領分を侵さない様にしてあるということを「空」といっているのです。

 

「空」というのは何も無いということではありません。

 

「比較するものが無くなった」ということです。

 

別の言葉で言えば、只、思い込みの取れたことです。


「空」とは4

2024年03月09日 | 法理

「空」というと、あるものがある時期において「ある縁に因って其の物に成った」と考えがちですが、そういうものではありません。

 

「空のままにものが有(在)る」ということです。

 

「空」のなかにものが、様々な「法として、差別として有(在)る」ということです。

 

別の言葉で言えば、「それぞれのものが全て空のままに、無いながらにして有(在)る状態」を仏教で謂う所の「空」と説明している訳です。


「空」とは3

2024年03月03日 | 法理

「此の物自体」は「空」なのです。

 

「実体」が無く、自性(じしょう)が無いものなのです。

 

「一つの物」というものは有り様がありませんので、これを「空」といっているのです。

 

「全ての事実」を「空」と名付けたのです。

 

これは一応説明として「空」と名付けたのです。

 

ですから、「此の空」も「認める事の出来ないものであり、実体の無いもの」なのです。

 

「縁」に応じて自由に変化していき、その変化していく活動が「業」というものです。

 

「修行に因って、自分が空に成った」という人がありますが、それは間違いです。

 

私たち衆生はもともと「空」なのです。


「空」とは2

2024年03月01日 | 法理

「空」とは何かあるべきものが不在している状態をいうのではありません。

 

相対的に「空」に対する「有(う)」を想定したものでもありません。

 

「空の空、空の縁、空の自分」ということです。

 

何故「空」なのかというと、「有形、無形の一切の物は全て因縁に因って出来ている」からです。

 

「因縁の法則」は最初から「絶対の法則」として存在していた訳ではありません。

 

おシャカ様が「法、道、空」を理論的に説明しなければならない為に「因縁の法則」を打ち立てたのです。


「空」とは1

2024年02月28日 | 法理

ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。

 

「此の物自体」には名称は有(在)りません。

 

「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。

 

本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。

 

何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。

 

「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。

 

別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。

 

 


無我とは3

2024年02月21日 | 法理

「修行に因って迷いをなくそう」と思うのは間違いです。

 

「人(ひと)」は一定しない状態を「不安」という言葉で表現しています。

 

本来、「迷い」や「不安」は実体のないものですから、「迷いの法」といい「不安の法」というものもみんな「ひとつの法」なのです。

 

それぞれ「縁」に因って「迷い」となり「不安」となっているのです。

 

これは「人(ひと)」が作ったものではありません。

 

従って「迷い」は迷いのまま、「不安」は不安のまま有(在)るのが「法(道)」にかなった状態です。

 

「法(道)」から離れようとするのは「自我の働き」だということをよく知(識)っておいていただきたく思います。


無我とは2

2024年02月19日 | 法理

そのように元来、名付けられない「此の物」を知らず識らずに認識し、周囲の人を「人間(にんげん)」と見るようになるのです。

 

ですから、私たち衆生は此の世界に生まれたということを絶対に知(識)ることが出来ないにもかかわらず、「私は此処に存在している」という認識を起こしているのです。

 

私たち衆生は、もともと「人(ひと)」ではなかったのに「ある時(物心がついてものごとを認識出来る働きが起きた時)」から「此の物を人」と認め「本来何もないもの(認めようにも認められないもの)を有(在)ると思って認識してきただけ」の話なのです。